和に近いものを感じ、一番奥のテエブルの前にやっと楽々と腰をおろした。そこには幸い僕の外に二三人の客のあるだけだった。僕は一杯のココアを啜《すす》り、ふだんのように巻煙草をふかし出した。巻煙草の煙は薔薇色の壁へかすかに青い煙を立ちのぼらせて行った。この優しい色の調和もやはり僕には愉快だった。けれども僕は暫らくの後、僕の左の壁にかけたナポレオンの肖像画を見つけ、そろそろ又不安を感じ出した。ナポレオンはまだ学生だった時、彼の地理のノオト・ブックの最後に「セエント・ヘレナ、小さい島」と記していた。それは或は僕等の言うように偶然だったかも知れなかった。しかしナポレオン自身にさえ恐怖を呼び起したのは確かだった。……
 僕はナポレオンを見つめたまま、僕自身の作品を考え出した。するとまず記憶に浮かんだのは「侏儒《しゅじゅ》の言葉」の中のアフォリズムだった。(殊に「人生は地獄よりも地獄的である」と云う言葉だった)それから「地獄変」の主人公、――良秀《よしひで》と云う画師《えし》の運命だった。それから……僕は巻煙草をふかしながら、こう云う記憶から逃《のが》れる為にこのカッフェの中を眺めまわした。僕のここへ避難したのは五分もたたない前のことだった。しかしこのカッフェは短時間の間にすっかり容子《ようす》を改めていた。就中《なかんずく》僕を不快にしたのはマホガニイまがいの椅子やテエブルの少しもあたりの薔薇色の壁と調和を保っていないことだった。僕はもう一度人目に見えない苦しみの中に落ちこむのを恐れ、銀貨を一枚投げ出すが早いか、※[#「勹<夕」、第3水準1−14−76]々《そうそう》このカッフェを出ようとした。
「もし、もし、二十銭頂きますが、……」
 僕の投げ出したのは銅貨だった。
 僕は屈辱を感じながら、ひとり往来を歩いているうちにふと遠い松林の中にある僕の家を思い出した。それは或郊外にある僕の養父母の家ではない、唯僕を中心にした家族の為に借りた家だった。僕はかれこれ十年|前《ぜん》にもこう云う家に暮らしていた。しかし或事情の為に軽率にも父母と同居し出した。同時に又奴隷に、暴君に、力のない利己主義者に変り出した。……
 前のホテルに帰ったのはもうかれこれ十時だった。ずっと長い途《みち》を歩いて来た僕は僕の部屋へ帰る力を失い、太い丸太の火を燃やした炉の前の椅子に腰をおろした。それから僕の計画し
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