のかも知れなかつた。若《も》し又僕に来たとしても、――僕は鏡に後ろを向け、窓の前の机へ帰つて行つた。
 四角に凝灰岩を組んだ窓は枯芝や池を覗《のぞ》かせてゐた。僕はこの庭を眺めながら、遠い松林の中に焼いた何冊かのノオト・ブツクや未完成の戯曲を思ひ出した。それからペンをとり上げると、もう一度新らしい小説を書きはじめた。

     五 赤光

 日の光は僕を苦しめ出した。僕は実際|※[#「鼬」の「由」に代えて「晏」、第3水準1−94−84]鼠《もぐらもち》のやうに窓の前へカアテンをおろし、昼間も電燈をともしたまま、せつせと前の小説をつづけて行つた。それから仕事に疲れると、テエヌの英吉利《イギリス》文学史をひろげ、詩人たちの生涯に目を通した。彼等はいづれも不幸だつた。エリザベス朝の巨人たちさへ、――一代の学者だつたベン・ジヨンソンさへ彼の足の親指の上に羅馬《ロオマ》とカルセエヂとの軍勢の戦ひを始めるのを眺めたほど神経的疲労に陥つてゐた。僕はかう云ふ彼等の不幸に残酷な悪意に充ち満ちた歓びを感じずにはゐられなかつた。
 或東かぜの強い夜、(それは僕には善い徴《しるし》だつた。)僕は地下室を抜け
前へ 次へ
全56ページ中37ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
芥川 竜之介 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング