と病的だつたぜ。この頃は体は善《い》いのかい?」
「不相変《あひかはらず》薬ばかり嚥《の》んでゐる始末だ。」
「僕もこの頃は不眠症だがね。」
「僕も?――どうして君は『僕も』と言ふのだ?」
「だつて君も不眠症だつて言ふぢやないか? 不眠症は危険だぜ。……」
彼は左だけ充血した目に微笑に近いものを浮かべてゐた。僕は返事をする前に「不眠症」のシヤウの発音を正確に出来ないのを感じ出した。
「気違ひの息子には当り前だ。」
僕は十分とたたないうちにひとり又往来を歩いて行つた。アスフアルトの上に落ちた紙屑は時々僕等人間の顔のやうにも見えないことはなかつた。すると向うから断髪にした女が一人通りかかつた。彼女は遠目には美しかつた。けれども目の前へ来たのを見ると、小皺《こじわ》のある上に醜い顔をしてゐた。のみならず妊娠してゐるらしかつた。僕は思はず顔をそむけ、広い横町を曲つて行つた。が、暫らく歩いてゐるうちに痔《ぢ》の痛みを感じ出した。それは僕には坐浴より外に瘉《いや》すことの出来ない痛みだつた。
「坐浴、――ベエトオヴエンもやはり坐浴をしてゐた。……」
坐浴に使ふ硫黄《いわう》の匂ひは忽ち僕の鼻
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