界隈《かいわい》の火事を見たりしてゐた。それは彼の家の焼けない前にもおのづから僕に火事のある予感を与へない訣《わけ》には行かなかつた。
「今年は家が火事になるかも知れないぜ。」
「そんな縁起の悪いことを。……それでも火事になつたら大変ですね。保険は碌《ろく》についてゐないし、……」
 僕等はそんなことを話し合つたりした。しかし僕の家は焼けずに、――僕は努めて妄想を押しのけ、もう一度ペンを動かさうとした。が、ペンはどうしても一行とは楽に動かなかつた。僕はとうとう机の前を離れ、ベツドの上に転がつたまま、トルストイの Polikouchka を読みはじめた。この小説の主人公は虚栄心や病的傾向や名誉心の入り交つた、複雑な性格の持ち主だつた。しかも彼の一生の悲喜劇は多少の修正を加へさへすれば、僕の一生のカリカテユアだつた。殊に彼の悲喜劇の中に運命の冷笑を感じるのは次第に僕を無気味にし出した。僕は一時間とたたないうちにベツドの上から飛び起きるが早いか、窓かけの垂れた部屋の隅へ力一ぱい本を抛りつけた。
「くたばつてしまへ!」
 すると大きい鼠が一匹窓かけの下からバスの部屋へ斜めに床の上を走つて行つた
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