に。」
「どうして又そんな所に行つてゐたのだらう?」
「さあ、鼠かも知れません。」
僕は給仕の退いた後、牛乳を入れない珈琲《コオヒイ》を飲み、前の小説を仕上げにかかつた。凝灰岩《ぎようくわいがん》を四角に組んだ窓は雪のある庭に向つてゐた。僕はペンを休める度にぼんやりとこの雪を眺めたりした。雪は莟《つぼみ》を持つた沈丁花《ぢんちやうげ》の下に都会の煤煙《ばいえん》によごれてゐた。それは何か僕の心に傷《いた》ましさを与へる眺めだつた。僕は巻煙草をふかしながら、いつかペンを動かさずにいろいろのことを考へてゐた。妻のことを、子供たちのことを、就中《なかんづく》姉の夫のことを。……
姉の夫は自殺する前に放火の嫌疑を蒙《かうむ》つてゐた。それも亦実際仕かたはなかつた。彼は家の焼ける前に家の価格に二倍する火災保険に加入してゐた。しかも偽証罪を犯した為に執行猶予中の体になつてゐた。けれども僕を不安にしたのは彼の自殺したことよりも僕の東京へ帰る度に必ず火の燃えるのを見たことだつた。僕は或は汽車の中から山を焼いてゐる火を見たり、或は又自動車の中から(その時は妻子とも一しよだつた。)常磐橋《ときはばし》
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