そのうちにふと出合つたのは高等学校以来の旧友だつた。この応用化学の大学教授は大きい中折れ鞄を抱へ、片目だけまつ赤に血を流してゐた。
「どうした、君の目は?」
「これか? これは唯の結膜炎さ。」
僕はふと十四五年以来、いつも親和力を感じる度に僕の目も彼の目のやうに結膜炎を起すのを思ひ出した。が何とも言はなかつた。彼は僕の肩を叩き、僕等の友だちのことを話し出した。それから話をつづけたまま、或カツフエへ僕をつれて行つた。
「久しぶりだなあ。朱舜水《しゆしゆんすゐ》の建碑式以来だらう。」
彼は葉巻に火をつけた後、大理石のテエブル越しにかう僕に話しかけた。
「さうだあのシユシユン……」
僕はなぜか朱舜水と云ふ言葉を正確に発音出来なかつた。それは日本語だつただけにちよつと僕を不安にした。しかし彼は無頓着にいろいろのことを話して行つた。Kと云ふ小説家のことを、彼の買つたブル・ドツグのことを、リウイサイトと云ふ毒瓦斯《どくガス》のことを。……
「君はちつとも書かないやうだね。『点鬼簿《てんきぼ》』と云ふのは読んだけれども。……あれは君の自叙伝かい?」
「うん、僕の自叙伝だ。」
「あれはちよつと病的だつたぜ。この頃は体は善《い》いのかい?」
「不相変《あひかはらず》薬ばかり嚥《の》んでゐる始末だ。」
「僕もこの頃は不眠症だがね。」
「僕も?――どうして君は『僕も』と言ふのだ?」
「だつて君も不眠症だつて言ふぢやないか? 不眠症は危険だぜ。……」
彼は左だけ充血した目に微笑に近いものを浮かべてゐた。僕は返事をする前に「不眠症」のシヤウの発音を正確に出来ないのを感じ出した。
「気違ひの息子には当り前だ。」
僕は十分とたたないうちにひとり又往来を歩いて行つた。アスフアルトの上に落ちた紙屑は時々僕等人間の顔のやうにも見えないことはなかつた。すると向うから断髪にした女が一人通りかかつた。彼女は遠目には美しかつた。けれども目の前へ来たのを見ると、小皺《こじわ》のある上に醜い顔をしてゐた。のみならず妊娠してゐるらしかつた。僕は思はず顔をそむけ、広い横町を曲つて行つた。が、暫らく歩いてゐるうちに痔《ぢ》の痛みを感じ出した。それは僕には坐浴より外に瘉《いや》すことの出来ない痛みだつた。
「坐浴、――ベエトオヴエンもやはり坐浴をしてゐた。……」
坐浴に使ふ硫黄《いわう》の匂ひは忽ち僕の鼻を襲ひ出した。しかし勿論往来にはどこにも硫黄は見えなかつた。僕はもう一度紙屑の薔薇の花を思ひ出しながら、努めてしつかりと歩いて行つた。
一時間ばかりたつた後、僕は僕の部屋にとぢこもつたまま、窓の前の机に向かひ、新らしい小説にとりかかつてゐた。ペンは僕にも不思議だつたくらゐ、ずんずん原稿用紙の上を走つて行つた。しかしそれも二三時間の後には誰か僕の目に見えないものに抑へられたやうにとまつてしまつた。僕はやむを得ず机の前を離れ、あちこちと部屋の中を歩きまはつた。僕の誇大妄想はかう云ふ時に最も著しかつた。僕は野蛮な歓びの中に僕には両親もなければ妻子もない、唯僕のペンから流れ出した命だけあると云ふ気になつてゐた。
けれども僕は四五分の後、電話に向はなければならなかつた。電話は何度返事をしても、唯何か曖昧《あいまい》な言葉を繰り返して伝へるばかりだつた。が、それは兎も角もモオルと聞えたのに違ひなかつた。僕はとうとう電話を離れ、もう一度部屋の中を歩き出した。しかしモオルと云ふ言葉だけは妙に気になつてならなかつた。
「モオル――Mole……」
モオルは※[#「鼬」の「由」に代えて「晏」、第3水準1−94−84]鼠《もぐらもち》と云ふ英語だつた。この聯想も僕には愉快ではなかつた。が、僕は二三秒の後、Mole を la mort に綴り直した。ラ・モオルは、――死と云ふ仏蘭西《フランス》語は忽ち僕を不安にした。死は姉の夫に迫つてゐたやうに僕にも迫つてゐるらしかつた。けれども僕は不安の中にも何か可笑《をか》しさを感じてゐた。のみならずいつか微笑してゐた。この可笑しさは何の為に起るか?――それは僕自身にもわからなかつた。僕は久しぶりに鏡の前に立ち、まともに僕の影と向ひ合つた。僕の影も勿論微笑してゐた。僕はこの影を見つめてゐるうちに第二の僕のことを思ひ出した。第二の僕、――独逸《ドイツ》人の所謂《いはゆる》 Doppelgaenger は仕合せにも僕自身に見えたことはなかつた。しかし亜米利加《アメリカ》の映画俳優になつたK君の夫人は第二の僕を帝劇の廊下に見かけてゐた。(僕は突然K君の夫人に「先達《せんだつて》はつい御挨拶もしませんで」と言はれ、当惑したことを覚えてゐる。)それからもう故人になつた或隻脚の飜訳家もやはり銀座の或煙草屋に第二の僕を見かけてゐた。死は或は僕よりも第二の僕に来る
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