闘争は一々僕には痛切だつた。僕はこの主人公に比べると、どのくらゐ僕の阿呆だつたかを感じ、いつか涙を流してゐた。同時に又涙は僕の気もちにいつか平和を与へてゐた。が、それも長いことではなかつた。僕の右の目はもう一度半透明の歯車を感じ出した。歯車はやはりまはりながら、次第に数を殖《ふ》やして行つた。僕は頭痛のはじまることを恐れ、枕もとに本を置いたまま、○・八グラムのヴエロナアルを嚥《の》み、兎に角ぐつすりと眠ることにした。
けれども僕は夢の中に或プウルを眺めてゐた。そこには又男女の子供たちが何人も泳いだりもぐつたりしてゐた。僕はこのプウルを後ろに向うの松林へ歩いて行つた。すると誰か後ろから「おとうさん」と僕に声をかけた。僕はちよつとふり返り、プウルの前に立つた妻を見つけた。同時に又烈しい後悔を感じた。
「おとうさん、タオルは?」
「タオルは入らない。子供たちに気をつけるのだよ。」
僕は又歩みをつづけ出した。が、僕の歩いてゐるのはいつかプラツトフオオムに変つてゐた。それは田舎の停車場だつたと見え、長い生け垣のあるプラツトフオオムだつた。そこには又Hと云ふ大学生や年をとつた女も佇《たたず》んでゐた。彼等は僕の顔を見ると、僕の前に歩み寄り、口々に僕へ話しかけた。
「大火事でしたわね。」
「僕もやつと逃げて来たの。」
僕はこの年をとつた女に何か見覚えのあるやうに感じた。のみならず彼女と話してゐることに或愉快な興奮を感じた。そこへ汽車は煙をあげながら、静かにプラツトフオオムへ横づけになつた。僕はひとりこの汽車に乗り、両側に白い布を垂らした寝台の間を歩いて行つた。すると或寝台の上にミイラに近い裸体の女が一人こちらを向いて横になつてゐた。それは又僕の復讐の神、――或狂人の娘に違ひなかつた。……
僕は目を醒《さ》ますが早いか、思はずベツドを飛び下りてゐた。僕の部屋は不相変電燈の光に明るかつた。が、どこかに翼の音や鼠のきしる音も聞えてゐた。僕は戸をあけて廊下へ出、前の炉の前へ急いで行つた。それから椅子に腰をおろしたまま、覚束《おぼつか》ない炎を眺め出した。そこへ白い服を着た給仕が一人|焚《た》き木《ぎ》を加へに歩み寄つた。
「何時?」
「三時半ぐらゐでございます。」
しかし向うのロツビイの隅には亜米利加《アメリカ》人らしい女が一人何か本を読みつづけてゐた。彼女の着てゐるのは遠目に見ても緑いろのドレツスに違ひなかつた。僕は何か救はれたのを感じ、ぢつと夜のあけるのを待つことにした。長年の病苦に悩み抜いた揚句《あげく》、静かに死を待つてゐる老人のやうに。……
四 まだ?
僕はこのホテルの部屋にやつと前の短篇を書き上げ、或雑誌に送ることにした。尤も僕の原稿料は一週間の滞在費にも足りないものだつた。が、僕は僕の仕事を片づけたことに満足し、何か精神的強壮剤を求める為に銀座の或本屋へ出かけることにした。
冬の日の当つたアスフアルトの上には紙屑が幾つもころがつてゐた。それ等の紙屑は光の加減か、いづれも薔薇の花にそつくりだつた。僕は何ものかの好意を感じ、その本屋の店へはひつて行つた。そこも亦ふだんよりも小綺麗だつた。唯|目金《めがね》をかけた小娘が一人何か店員と話してゐたのは僕には気がかりにならないこともなかつた。けれども僕は往来に落ちた紙屑の薔薇の花を思ひ出し、「アナトオル・フランスの対話集」や「メリメエの書簡集」を買ふことにした。
僕は二冊の本を抱へ、或カツフエへはひつて行つた。それから一番奥のテエブルの前に珈琲《コオヒイ》の来るのを待つことにした。僕の向うには親子らしい男女が二人坐つてゐた。その息子は僕よりも若かつたものの、殆ど僕にそつくりだつた。のみならず彼等は恋人同志のやうに顔を近づけて話し合つてゐた。僕は彼等を見てゐるうちに少くとも息子は性的にも母親に慰めを与へてゐることを意識してゐるのに気づき出した。それは僕にも覚えのある親和力の一例に違ひなかつた。同時に又現世を地獄にする或意志の一例にも違ひなかつた。しかし、――僕は又苦しみに陥るのを恐れ、丁度珈琲の来たのを幸ひ、「メリメエの書簡集」を読みはじめた。彼はこの書簡集の中にも彼の小説の中のやうに鋭いアフオリズムを閃《ひらめ》かせてゐた。それ等のアフオリズムは僕の気もちをいつか鉄のやうに巌畳《がんでふ》にし出した。(この影響を受け易いことも僕の弱点の一つだつた。)僕は一杯の珈琲を飲み了つた後、「何でも来い」と云ふ気になり、さつさとこのカツフエを後ろにして行つた。
僕は往来を歩きながら、いろいろの飾り窓を覗いて行つた。或額縁屋の飾り窓はベエトオヴエンの肖像画を掲げてゐた。それは髪を逆立てた天才そのものらしい肖像画だつた。僕はこのベエトオヴエンを滑稽に感ぜずにはゐられなかつた。……
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