、霜は夢に打手《うつて》のかかるを見、肝《きも》を冷やし候よし、大声に何か呼ばはりながら、お廊下を四五間走りまはり候。
 十六、十六日|巳《み》の刻頃、少斎石見の両人、再び霜に申され候は、唯今治部少かたより表向きの使参り、是非とも秀林院様をおん渡し候へ、もしおん渡し候はずば、押し掛けて取り候はんと申し候間、さりとは我儘《わがまま》なる申し条も候ものかな、この上は我等腹を切り候とも、おん渡し仕るまじくと申し遣はし候。然れば秀林院様にも御覚悟遊ばされたくとのことに有之候。その節、生憎《あいにく》少斎は抜け歯を煩《わづら》はれ居り候まま、石見に口上を頼まれ候よし、又石見は立腹の余り、霜をも打ち果すかと見えられ候よし、いづれも霜の物語に御座候。
 十七、秀林院様は霜より仔細《しさい》を聞こし召され、直ちに与一郎様の奥様とお内談に相成り候。後に承り候へば、与一郎様の奥様にも御生害《ごしやうがい》をお勧めに相成り候よし、何ともお傷《いたは》しく存じ上げ候。総じてこの度の大変はやむを得ぬ仕儀とは申しながら、第一にはお留守居役の無分別よりことを破り、第二には又秀林院様御自身のお気性より御最期を早められ候も同然の儀に御座候。然るに与一郎様の奥様にも御生害をお勧め遊ばされ候上は、わたくしどもにさへお伴を仕るやう、御意なされ候やも計り難く、愈《いよいよ》迷惑に存じ居り候ところ、みなみな御前へ召され候間、如何なる仰せを蒙ることかと一かたならず案じ申し候。
 十八、やがて御前へ参り候へば、秀林院様御意なされ候は、愈「はらいそ」と申す極楽へ参り候はん時節も近づき、一段悦ばしく候と仰せられ候。なれどもおん顔の色は青ざめお声もやや震へ居られ候間、もとよりこれはおん偽《いつはり》と存じ上げ候。秀林院様又御意なされ候は、唯|黄泉路《よみぢ》の障《さは》りとなるはその方どもの未来なり、その方どもは心得悪しく、切支丹《きりしたん》の御宗門にも帰依《きえ》し奉らず候まま、未来は「いんへるの」と申す地獄に堕《お》ち、悪魔の餌食とも成り果て候べし。就いては今日より心を改め、天主のおん教へを守らせ候へ。もし又さもなく候はば、みなみな生害の伴《とも》を仕り、われらと共に穢土《ゑど》を去り候へ。その節はわれらより「あるかんじよ」(大天使)へ頼み、「あるかんじよ」より又おん主《あるじ》「えす・きりすと」へ頼み奉り、一同
前へ 次へ
全8ページ中6ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
芥川 竜之介 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング