た美人の姿が、髣髴《はうふつ》と浮んでゐるからだよ。平中は何時も世間の女に、さう云ふ美しさを見ようとしてゐる。実際惚れてゐる時には、見る事が出来たと思つてゐるのだ。が、勿論二三度逢へば、さう云ふ蜃気楼《しんきろう》は壊れてしまふ。その為にあいつは女から女へ、転々と憂《う》き身をやつしに行くのだ。しかも末法《まつぽふ》の世の中に、そんな美人のゐる筈はないから、結局平中の一生は、不幸に終るより仕方がない。その点では君や僕の方が、遙かに仕合せだと云ふものさ。しかし平中の不幸なのは、云はば天才なればこそだね。あれは平中一人ぢやない。空海上人や小野道風も、きつとあいつと似てゐたらう。兎に角仕合になる為には、御同様凡人が一番だよ……。」
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     五 まりも美しとなげく男

 平中《へいちゆう》は独り寂しさうに、本院の侍従の局《つぼね》に近い、人気《ひとけ》のない廊下に佇んでゐる。その廊下の欄にさした、油のやうな日の色を見ても、又今日は暑さが加はるらしい。が、庇《ひさし》の外の空には、簇々《そうそう》と緑を抽《ぬ》いた松が、静かに涼しさを守つてゐる。
「侍従はおれを相手にしない。おれももう侍従は思ひ切つた。――」
 平中は蒼白い顔をした儘、ぼんやりこんな事を思つてゐる。
「しかしいくら思ひ切つても、侍従の姿は幻のやうに、必ず眼前に浮んで来る。おれは何時かの雨夜以来、唯この姿を忘れたいばかりに、どの位四方の神仏へ、祈願を凝《こ》らしたかわからない。が、加茂の御社《みやしろ》へ行けば、御鏡の中にありありと、侍従の顔が映つて見える。清水《きよみづ》の御寺《みてら》の内陣にはひれば、観世音菩薩の御姿さへ、その儘侍従に変つてしまふ。もしこの姿が何時までも、おれの心を立ち去らなければ、おれはきつと焦《こが》れ死《じに》に、死んでしまふのに相違ない。――」
 平中は長い息をついた。
「だがその姿を忘れるには、――たつた一つしか手段はない。それは何でもあの女の浅間しい所を見つける事だ。侍従もまさか天人ではなし、不浄もいろいろ蔵してゐるだらう。其処を一つ見つけさへすれば、丁度女房に化けた狐が、尾のある事を知られたやうに、侍従の幻も崩れてしまふ。おれの命はその刹那に、やつとおれのものになるのだ。が、何処が浅間しいか、何処が不浄を蔵してゐるか、それは誰も教へてくれない。ああ、大慈大悲の観世音菩薩、どうか其処を御示し下さい、侍従は河原の女乞食と、実は少しも変らない証拠を。……」
 平中はかう考へながら、ふと懶《ものう》い視線を挙げた。
「おや、あすこへ来かかつたのは、侍従の局の女《め》の童《わらは》ではないか?」
 あの利口さうな女の童は、撫子《なでしこ》重《がさ》ねの薄物の袙《あこめ》に、色の濃い袴を引きながら、丁度こちらへ歩いて来る。それが赤紙の画扇の陰に、何か筐《はこ》を隠してゐるのは、きつと侍従のした糞《まり》を捨てに行く所に相違ない。その姿を一目見ると、突然平中の心の中《うち》には、或大胆な決心が、稲妻のやうに閃《ひらめ》き渡つた。
 平中は眼の色を変へたなり、女の童の行く手に立ち塞がつた。そしてその筐をひつたくるや否や、廊下の向ふに一つ見える、人のゐない部屋へ飛んで行つた。不意を打たれた女の童は、勿論泣き声を出しながら、ばたばた彼を追ひかけて来る。が、その部屋へ躍りこむと、平中は、遣戸《やりど》を立て切るが早いか、手早く懸け金を下してしまつた。
「さうだ。この中を見れば間違ひない。百年の恋も一瞬の間に、煙よりもはかなく消えてしまふ。……」
 平中はわなわな震へる手に、ふはりと筐の上へかけた、香染《かうぞめ》の薄物を掲げて見た。筐は意外にも精巧を極めた、まだ真新しい蒔絵《まきゑ》である。
「この中に侍従の糞《まり》がある。同時におれの命もある。……」
 平中は其処に佇んだ儘、ぢつと美しい筐を眺めた。局の外には忍び忍びに、女の童の泣き声が続いてゐる。が、それは何時の間にか、重苦しい沈黙に呑まれてしまふ。と思ふと遣戸や障子も、だんだん霧のやうに消え始める。いや、もう今では昼か夜か、それさへ平中には判然しない。唯彼の眼の前には、時鳥《ほととぎす》を描《か》いた筐が一つ、はつきり空中に浮き出してゐる。……
「おれの命の助かるのも、侍従と一生の別れをするのも、皆この筐に懸つてゐる。この筐の蓋を取りさへすれば、――いや、それは考へものだぞ。侍従を忘れてしまふのが好いか、甲斐のない命を長らへるのが好いか、おれにはどちらとも返答出来ない。たとひ焦がれ死をするにもせよ、この筐の蓋だけは取らずに置かうか?……」
 平中は窶《やつ》れた頬の上に、涙の痕を光らせながら、今更のやうに思ひ惑つた。しかし少時《しばらく》沈吟《ちんぎん》した後、急に眼を輝かせると、今度はかう心の中に一生懸命の叫声を挙げた。
「平中! 平中! お前は何と云ふ意気地なしだ? あの雨夜を忘れたのか? 侍従は今もお前の恋を嘲笑つてゐるかも知れないのだぞ。生きろ! 立派に生きて見せろ! 侍従の糞《まり》を見さへすれば、必《かならず》お前は勝ち誇れるのだ。……」
 平中は殆《ほとんど》気違ひのやうに、とうとう筐の蓋を取つた。筐には薄い香色の水が、たつぷり半分程はひつた中に、これは濃い香色の物が、二つ三つ底へ沈んでゐる。と思ふと夢のやうに、丁子《ちやうじ》の匂が鼻を打つた。これが侍従の糞であらうか? いや、吉祥天女にしてもこんな糞はする筈がない。平中は眉をひそめながら、一番上に浮いてゐた、二寸程の物をつまみ上げた。さうして髭にも触れる位、何度も匂を嗅ぎ直して見た。匂は確かに紛《まぎ》れもない、飛び切りの沈《ぢん》の匂である。
「これはどうだ! この水もやはり匂ふやうだが、――」
 平中は筐を傾けながら、そつと水を啜つて見た。水も丁子《ちやうじ》を煮返した、上澄みの汁に相違ない。
「するとこいつも香木かな?」
 平中は今つまみ上げた、二寸程の物を噛みしめて見た。すると歯にも透《とほ》る位、苦味の交つた甘さがある。その上彼の口の中には、急《たちま》ち橘の花よりも涼しい、微妙な匂が一ぱいになつた。侍従は何処から推量したか、平中のたくみを破る為に、香細工の糞をつくつたのである。
「侍従! お前は平中を殺したぞ!」
 平中はかう呻《うめ》きながら、ばたりと蒔絵の筐を落した。さうして其処の床の上へ、仏倒《ほとけだふ》しに倒れてしまつた。その半死の瞳の中には、紫摩金《しまごん》の円光にとりまかれた儘、※[#「女+展」、180−下−14]然《てんぜん》と彼にほほ笑みかけた侍従の姿を浮べながら。……
[#地から2字上げ](大正十年九月)



底本:「現代日本文学大系 43 芥川龍之介集」筑摩書房
   1968(昭和43)年8月25日初版第1刷発行
入力:j.utiyama
校正:かとうかおり
1999年1月19日公開
2004年3月1日修正
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