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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)平中《へいちゆう》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)平中|病付《やみつき》にけり
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(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「りっしんべん+淌のつくり」、第3水準1−84−54]
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平中《へいちゆう》といふ色ごのみにて、宮仕人《みやづかへびと》はさらなり、人の女《むすめ》など忍びて見
ぬはなかりけり。
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[#地から3字上げ]宇治拾遺物語
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何《いか》でかこの人に不会《あは》では止まむと思ひ迷ける程に、平中|病付《やみつき》にけり。
然《しかうし》て悩《なやみ》ける程に死《しに》にけり。
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[#地から3字上げ]今昔物語
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色を好むといふは、かやうのふるまひなり。
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[#地から3字上げ]十訓抄
一 画姿
泰平《たいへい》の時代にふさはしい、優美なきらめき烏帽子《ゑぼし》の下には、下《しも》ぶくれの顔がこちらを見てゐる。そのふつくりと肥つた頬に、鮮かな赤みがさしてゐるのは、何も臙脂《えんじ》をぼかしたのではない。男には珍しい餅肌が、自然と血の色を透《す》かせたのである。髭《ひげ》は品《ひん》の好い鼻の下に、――と云ふよりも薄い唇の左右に、丁度薄墨を刷《は》いたやうに、僅ばかりしか残つてゐない。しかしつややかな鬢《びん》の上には、霞も立たない空の色さへ、ほんのりと青みを映してゐる。耳はその鬢《びん》のはづれに、ちよいと上《あが》つた耳たぶだけ見える。それが蛤《はまぐり》の貝のやうな、暖かい色をしてゐるのは、かすかな光の加減らしい。眼は人よりも細い中《うち》に、絶えず微笑が漂つてゐる。殆《ほとんど》その瞳の底には、何時《いつ》でも咲き匂つた桜の枝が、浮んでゐるのかと思ふ位、晴れ晴れした微笑が漂つてゐる。が、多少注意をすれば、其処《そこ》には必しも幸福のみが住まつてゐない事がわかるかも知れない。これは遠い何物かに、※[#「りっしんべん+淌のつくり」、第3水準1−84−54]※[#「りっしんべん+兄」、第3水準1−84−45]《しやうけい》を持つた微笑である。同時に又手近い一切《いつさい》に、軽蔑を抱いた微笑である。頸《くび》は顔に比べると、寧《むし》ろ華奢《きやしや》すぎると評しても好い。その頸には白い汗衫《かざみ》の襟が、かすかに香を焚きしめた、菜の花色の水干《すゐかん》の襟と、細い一線を画《ゑが》いてゐる。顔の後にほのめいてゐるのは、鶴を織り出した几帳《きちやう》であらうか? それとものどかな山の裾に、女松《めまつ》を描いた障子であらうか? 兎に角曇つた銀のやうな、薄白い明《あかる》みが拡がつてゐる。……
これが古い物語の中から、わたしの前に浮んで来た「天《あめ》が下《した》の色好《いろごの》み」平《たひら》の貞文《さだぶみ》の似顔である。平の好風《よしかぜ》に子が三人ある、丁度その次男に生まれたから、平中《へいちゆう》と渾名《あだな》を呼ばれたと云ふ、わたしの Don Juan の似顔である。
二 桜
平中は柱によりかかりながら、漫然と桜を眺めてゐる。近々と軒に迫つた桜は、もう盛りが過ぎたらしい。そのやや赤みの褪《あ》せた花には、永い昼過ぎの日の光が、さし交《かは》した枝の向き向きに、複雑な影を投げ合つてゐる。が、平中の眼は桜にあつても、平中の心は桜にない。彼はさつきから漫然と、侍従《じじゆう》の事を考へてゐる。
「始めて侍従を見かけたのは、――」
平中はかう思ひ続けた。
「始めて侍従を見かけたのは、――あれは何時《いつ》の事だつたかな? さうさう、何でも稲荷詣《いなりまう》でに出かけると云つてゐたのだから、初午《はつうま》の朝だつたのに違ひない。あの女が車へ乗らうとする、おれが其処へ通りかかる、――と云ふのが抑々《そもそも》の起りだつた。顔は扇をかざした陰にちらりと見えただけだつたが、紅梅や萌黄《もえぎ》を重ねた上へ、紫の袿《うちぎ》をひつかけてゐる、――その容子《ようす》が何とも云へなかつた。おまけに※[#「車+非」、第4水準2−89−66]《はこ》へはひる所だから、片手に袴をつかんだ儘《まま》、心もち腰をかがめ加減にした、――その又恰好もたまらなかつたつけ。本院の大臣《おとど》の御屋形《おんやかた》には、ずゐぶん女房も沢山ゐるが、まづあの位なのは一人もないな。あれなら平中が惚《ほ》れたと云つても、――」
平中はちよいと真顔《まがほ》になつた。
「だが本当に惚れてゐるかしら? 惚れてゐると云へば、惚れてゐるやうでもあるし、惚れてゐないと云へば、惚れて、――一体こんな事は考へてゐると、だんだんわからなくなるものだが、まあ一通りは惚れてゐるな。尤もおれの事だから、いくら侍従に惚れたと云つても、眼さきまで昏《くら》んでしまひはしない。何時かあの範実《のりざね》のやつと、侍従の噂《うはさ》をしてゐたら、憾《うら》むらくは髪が薄すぎると、聞いた風な事を云つたつけ、あんな事は一目見た時にもうちやんと気がついてゐたのだ。範実《のりざね》などと云ふ男は、篳篥《ひちりき》こそちつとは吹けるだらうが、好色《かうしよく》の話となつた日には、――まあ、あいつはあいつとして置け。差向きおれが考へたいのは、侍従一人の事なのだから、――所でもう少し欲を云へば、顔もあれぢや寂しすぎるな。それも寂しすぎると云ふだけなら、何処《どこ》か古い画巻《ゑまき》じみた、上品な所がある筈だが、寂しい癖に薄情らしい、妙に落着いた所があるのは、どう考へても頼もしくない。女でもああ云ふ顔をしたのは、存外人を食つてゐるものだ。その上色も白い方ぢやない、浅黒いとまでは行かなくつても、琥珀色《こはくいろ》位な所はあるな。しかし何時見てもあの女は、何だかかう水際《みづぎは》立つた、震《ふる》ひつきたいやうな風をしてゐる。あれは確かにどの女も、真似の出来ない芸当だらう。……」
平中は袴の膝を立てながら、うつとりと軒の空を見上げた。空は簇《むらが》つた花の間に、薄青い色をなごませてゐる。
「それにしてもこの間から、いくら文《ふみ》を持たせてやつても、返事一つよこさないのは、剛情にも程があるぢやないか? まあおれが文をつけた女は、大抵は三度目に靡《なび》いてしまふ。たまに堅い女があつても、五度と文をやつた事はない。あの恵眼《ゑげん》と云ふ仏師の娘なぞは、一首の歌だけに落ちたものだ。それもおれの作つた歌ぢやない。誰かが、さうさう、――義輔《よしすけ》が作つた歌だつけ。義輔はその歌を書いてやつても、とんと先方の青女房には相手にされなかつたとか云ふ話だが、同じ歌でもおれが書けば――尤も侍従はおれが書いても、やつぱり返事はくれなかつたから、あんまり自慢は出来ないかも知れない。しかし兎に角おれの文には必ず女の返事が来る、返事が来れば逢ふ事になる。逢ふ事になれば大騒ぎをされる。大騒ぎをされれば――ぢきに又それが鼻についてしまふ。かうまあ相場がきまつてゐたものだ。所が侍従には一月ばかりに、ざつと二十通も文を書いたが、何とも便りがないのだからな。おれの艶書《えんしよ》の文体にしても、さう無際限にある訳ぢやなし、そろそろもう跡が続かなくなつた。だが今日やつた文の中には、『せめては唯見つとばかりの、二文字《ふたもじ》だに見せ給へ』と書いてやつたから、何とか今度こそ返事があるだらう。ないかな? もし今日も亦ないとすれば、――ああ、ああ、おれもついこの間までは、こんな事に気骨を折る程、意気地のない人間ぢやなかつたのだがな。何でも豊楽院《ぶらくゐん》の古狐は、女に化けると云ふ事だが、きつとあの狐に化かされたのは、こんな気がするのに違ひない。同じ狐でも奈良坂の狐は、三抱《みかか》へもあらうと云ふ杉の木に化ける。嵯峨の狐は牛車《ぎつしや》に化ける。高陽川《かやがは》の狐は女《め》の童《わらは》に化ける。桃薗《ももぞの》の狐は大池に化け――狐の事なぞはどうでも好《い》い。ええと、何を考へてゐたのだつけ?」
平中は空を見上げた儘、そつと欠伸《あくび》を噛殺《かみころ》した。花に埋《うづ》まつた軒先からは、傾きかけた日の光の中に、時々白いものが飜つて来る。何処かに鳩も啼いてゐるらしい。
「兎に角あの女には根負《こんま》けがする。たとひ逢ふと云はないまでも、おれと一度話さへすれば、きつと手に入れて見せるのだがな。まして一晩逢ひでもすれば、――あの摂津《せつつ》でも小中将《こちゆうじやう》でも、まだおれを知らない内は、男嫌ひで通してゐたものだ。それがおれの手にかかると、あの通り好きものになるぢやないか? 侍従にした所が金仏《かなぼとけ》ぢやなし、有頂天にならない筈はあるまい。しかしあの女はいざとなつても、小中将のやうには恥しがるまいな。と云つて又摂津のやうに、妙にとりすます柄でもあるまい。きつと袖を口へやると、眼だけにつこり笑ひながら、――」
「殿様。」
「どうせ夜の事だから、切り燈台か何かがともつてゐる。その火の光があの女の髪へ、――」
「殿様。」
平中はやや慌《あわ》てたやうに、烏帽子《ゑぼし》の頭を後へ向けた。後には何時《いつ》か童《わらべ》が一人、ぢつと伏し眼になりながら、一通の文《ふみ》をさし出してゐる。何でもこれは一心に、笑ふのをこらへてゐたものらしい。
「消息《せうそこ》か?」
「はい、侍従様から、――」
童はかう云ひ終ると、※[#「勹<夕」、第3水準1−14−76]々《そうそう》主人の前を下《さが》つた。
「侍従様から? 本当かしら?」
平中は殆《ほとんど》恐る恐る、青い薄葉《うすえふ》の文を開いた。
「範実や義輔の悪戯《いたづら》ぢやないか? あいつ等はみんなこんな事が、何よりも好きな閑人《ひまじん》だから、――おや、これは侍従の文だ。侍従の文には違ひないが、――この文は、これは、何と云ふ文だい?」
平中は文を抛《はふ》り出した。文には「唯見つとばかりの、二文字《ふたもじ》だに見せ給へ」と書いてやつた、その「見つ」と云ふ二文字だけが、――しかも平中の送つた文から、この二文字だけ切り抜いたのが、薄葉に貼りつけてあつたのである。
「ああ、ああ、天《あめ》が下《した》の色好みとか云はれるおれも、この位|莫迦《ばか》にされれば世話はないな。それにしても侍従と云ふやつは、小面《こづら》の憎い女ぢやないか? 今にどうするか覚えてゐろよ。……」
平中は膝を抱へた儘、茫然と桜の梢を見上げた。青い薄葉の飜つた上には、もう風に吹かれた落花が、点々と幾ひらもこぼれてゐる。……
三 雨夜
それから二月程たつた後である。或|長雨《ながあめ》の続いた夜、平中は一人本院の侍従の局《つぼね》へ忍んで行つた。雨は夜空が溶け落ちるやうに、凄《すさ》まじい響を立ててゐる。路は泥濘《でいねい》と云ふよりも、大水が出たのと変りはない。こんな晩にわざわざ出かけて行けば、いくらつれない侍従でも、憐れに思ふのは当然である、――かう考へた平中は、局の口へ窺《うかが》ひよると、銀を張つた扇を鳴らしながら、案内を請ふやうに咳ばらひをした。
すると十五六の女《め》の童《わらは》が、すぐに其処へ姿を見せた。ませた顔に白粉《おしろい》をつけた、さすがに睡《ね》むさうな女の童である。平中は顔を近づけながら、小声に侍従へ取次を頼んだ。
一度引きこんだ女の童は、局の口へ帰つて来ると、やはり小声にこんな返事をした。
「どうかこちらに御待ち下さいまし。今に皆様が御休みになれば、御逢ひになるさうでございますから。」
平中は思はず微笑した。さうして女の童の案内通り、侍従の居間の隣らしい、遣戸《やりど》の側に腰を下した。
「やつぱりおれは智慧者だな。」
女の童が何処かへ退
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