か?」
「はい、侍従様から、――」
 童はかう云ひ終ると、※[#「勹<夕」、第3水準1−14−76]々《そうそう》主人の前を下《さが》つた。
「侍従様から? 本当かしら?」
 平中は殆《ほとんど》恐る恐る、青い薄葉《うすえふ》の文を開いた。
「範実や義輔の悪戯《いたづら》ぢやないか? あいつ等はみんなこんな事が、何よりも好きな閑人《ひまじん》だから、――おや、これは侍従の文だ。侍従の文には違ひないが、――この文は、これは、何と云ふ文だい?」
 平中は文を抛《はふ》り出した。文には「唯見つとばかりの、二文字《ふたもじ》だに見せ給へ」と書いてやつた、その「見つ」と云ふ二文字だけが、――しかも平中の送つた文から、この二文字だけ切り抜いたのが、薄葉に貼りつけてあつたのである。
「ああ、ああ、天《あめ》が下《した》の色好みとか云はれるおれも、この位|莫迦《ばか》にされれば世話はないな。それにしても侍従と云ふやつは、小面《こづら》の憎い女ぢやないか? 今にどうするか覚えてゐろよ。……」
 平中は膝を抱へた儘、茫然と桜の梢を見上げた。青い薄葉の飜つた上には、もう風に吹かれた落花が、点々と幾ひらもこぼれてゐる。……

     三 雨夜

 それから二月程たつた後である。或|長雨《ながあめ》の続いた夜、平中は一人本院の侍従の局《つぼね》へ忍んで行つた。雨は夜空が溶け落ちるやうに、凄《すさ》まじい響を立ててゐる。路は泥濘《でいねい》と云ふよりも、大水が出たのと変りはない。こんな晩にわざわざ出かけて行けば、いくらつれない侍従でも、憐れに思ふのは当然である、――かう考へた平中は、局の口へ窺《うかが》ひよると、銀を張つた扇を鳴らしながら、案内を請ふやうに咳ばらひをした。
 すると十五六の女《め》の童《わらは》が、すぐに其処へ姿を見せた。ませた顔に白粉《おしろい》をつけた、さすがに睡《ね》むさうな女の童である。平中は顔を近づけながら、小声に侍従へ取次を頼んだ。
 一度引きこんだ女の童は、局の口へ帰つて来ると、やはり小声にこんな返事をした。
「どうかこちらに御待ち下さいまし。今に皆様が御休みになれば、御逢ひになるさうでございますから。」
 平中は思はず微笑した。さうして女の童の案内通り、侍従の居間の隣らしい、遣戸《やりど》の側に腰を下した。
「やつぱりおれは智慧者だな。」
 女の童が何処かへ退いた後、平中は独りにやにやしてゐた。
「さすがの侍従も今度と云ふ今度は、とうとう心が折れたと見える。兎角《とかく》女と云ふやつは、ものの哀れを感じ易いからな。其処へ親切気を見せさへすれば、すぐにころりと落ちてしまふ。かう云ふ甲所《かんどころ》を知らないから、義輔《よしすけ》や範実《のりざね》は何と云つても、――待てよ。だが今夜逢へると云ふのは、何だか話が旨《うま》すぎるやうだぞ。――」
 平中はそろそろ不安になつた。
「しかし逢ひもしないものが、逢ふと云ふ訳もなささうなものだ。するとおれのひがみかな? 何しろざつと六十通ばかり、のべつに文を持たせてやつても、返事一つ貰へなかつたのだから、ひがみの起るのも尤もな話だ。が、ひがみではないとしたら、――又つくづく考へると、ひがみではない気もしない事はない。いくら親切に絆《ほだ》されても、今までは見向きもしなかつた侍従が、――と云つても相手はおれだからな。この位平中に思はれたとなれば、急に心も融けるかも知れない。」
 平中は衣紋《えもん》を直しながら、怯《お》づ怯《お》づあたりを透かして見た。が、彼のゐまはりには、くら闇の外《ほか》に何も見えない。その中に唯雨の音が、檜肌葺《ひはだぶき》の屋根をどよませてゐる。
「ひがみだと思へば、ひがみのやうだし、ひがみでないと、――いや、ひがみだと思つてゐれば、ひがみでも何でもなくなるし、ひがみでないと思つてゐれば、案外ひがみですみさうな気がする。一体運なぞと云ふやつは、皮肉に出来てゐるものだからな。して見れば、何でも一心《いつしん》にひがみでないと思ふ事だ。さうすると今にもあの女が、――おや、もうみんな寝始めたらしいぞ。」
 平中は耳を側立《そばだ》てた。成程《なるほど》ふと気がついて見れば、不相変《あひかはらず》小止《をや》みない雨声《うせい》と一しよに、御前《ごぜん》へ詰めてゐた女房たちが局々《つぼねつぼね》に帰るらしい、人ざわめきが聞えて来る。
「此処が辛抱のし所だな。もう半時《はんとき》もたちさへすれば、おれは何の造作もなく、日頃の思ひが晴らされるのだ。が、まだ何だか肚《はら》の底には、安心の出来ない気もちもあるぞ。さうさう、これが好いのだつけ。逢はれないものだと思つてゐれば、不思議に逢ふ事が出来るものだ。しかし皮肉な運のやつは、さう云ふおれの胸算用《むなさんよう》も見透かして
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