るかしら? 惚れてゐると云へば、惚れてゐるやうでもあるし、惚れてゐないと云へば、惚れて、――一体こんな事は考へてゐると、だんだんわからなくなるものだが、まあ一通りは惚れてゐるな。尤もおれの事だから、いくら侍従に惚れたと云つても、眼さきまで昏《くら》んでしまひはしない。何時かあの範実《のりざね》のやつと、侍従の噂《うはさ》をしてゐたら、憾《うら》むらくは髪が薄すぎると、聞いた風な事を云つたつけ、あんな事は一目見た時にもうちやんと気がついてゐたのだ。範実《のりざね》などと云ふ男は、篳篥《ひちりき》こそちつとは吹けるだらうが、好色《かうしよく》の話となつた日には、――まあ、あいつはあいつとして置け。差向きおれが考へたいのは、侍従一人の事なのだから、――所でもう少し欲を云へば、顔もあれぢや寂しすぎるな。それも寂しすぎると云ふだけなら、何処《どこ》か古い画巻《ゑまき》じみた、上品な所がある筈だが、寂しい癖に薄情らしい、妙に落着いた所があるのは、どう考へても頼もしくない。女でもああ云ふ顔をしたのは、存外人を食つてゐるものだ。その上色も白い方ぢやない、浅黒いとまでは行かなくつても、琥珀色《こはくいろ》位な所はあるな。しかし何時見てもあの女は、何だかかう水際《みづぎは》立つた、震《ふる》ひつきたいやうな風をしてゐる。あれは確かにどの女も、真似の出来ない芸当だらう。……」
平中は袴の膝を立てながら、うつとりと軒の空を見上げた。空は簇《むらが》つた花の間に、薄青い色をなごませてゐる。
「それにしてもこの間から、いくら文《ふみ》を持たせてやつても、返事一つよこさないのは、剛情にも程があるぢやないか? まあおれが文をつけた女は、大抵は三度目に靡《なび》いてしまふ。たまに堅い女があつても、五度と文をやつた事はない。あの恵眼《ゑげん》と云ふ仏師の娘なぞは、一首の歌だけに落ちたものだ。それもおれの作つた歌ぢやない。誰かが、さうさう、――義輔《よしすけ》が作つた歌だつけ。義輔はその歌を書いてやつても、とんと先方の青女房には相手にされなかつたとか云ふ話だが、同じ歌でもおれが書けば――尤も侍従はおれが書いても、やつぱり返事はくれなかつたから、あんまり自慢は出来ないかも知れない。しかし兎に角おれの文には必ず女の返事が来る、返事が来れば逢ふ事になる。逢ふ事になれば大騒ぎをされる。大騒ぎをされれば――ぢきに又それが鼻についてしまふ。かうまあ相場がきまつてゐたものだ。所が侍従には一月ばかりに、ざつと二十通も文を書いたが、何とも便りがないのだからな。おれの艶書《えんしよ》の文体にしても、さう無際限にある訳ぢやなし、そろそろもう跡が続かなくなつた。だが今日やつた文の中には、『せめては唯見つとばかりの、二文字《ふたもじ》だに見せ給へ』と書いてやつたから、何とか今度こそ返事があるだらう。ないかな? もし今日も亦ないとすれば、――ああ、ああ、おれもついこの間までは、こんな事に気骨を折る程、意気地のない人間ぢやなかつたのだがな。何でも豊楽院《ぶらくゐん》の古狐は、女に化けると云ふ事だが、きつとあの狐に化かされたのは、こんな気がするのに違ひない。同じ狐でも奈良坂の狐は、三抱《みかか》へもあらうと云ふ杉の木に化ける。嵯峨の狐は牛車《ぎつしや》に化ける。高陽川《かやがは》の狐は女《め》の童《わらは》に化ける。桃薗《ももぞの》の狐は大池に化け――狐の事なぞはどうでも好《い》い。ええと、何を考へてゐたのだつけ?」
平中は空を見上げた儘、そつと欠伸《あくび》を噛殺《かみころ》した。花に埋《うづ》まつた軒先からは、傾きかけた日の光の中に、時々白いものが飜つて来る。何処かに鳩も啼いてゐるらしい。
「兎に角あの女には根負《こんま》けがする。たとひ逢ふと云はないまでも、おれと一度話さへすれば、きつと手に入れて見せるのだがな。まして一晩逢ひでもすれば、――あの摂津《せつつ》でも小中将《こちゆうじやう》でも、まだおれを知らない内は、男嫌ひで通してゐたものだ。それがおれの手にかかると、あの通り好きものになるぢやないか? 侍従にした所が金仏《かなぼとけ》ぢやなし、有頂天にならない筈はあるまい。しかしあの女はいざとなつても、小中将のやうには恥しがるまいな。と云つて又摂津のやうに、妙にとりすます柄でもあるまい。きつと袖を口へやると、眼だけにつこり笑ひながら、――」
「殿様。」
「どうせ夜の事だから、切り燈台か何かがともつてゐる。その火の光があの女の髪へ、――」
「殿様。」
平中はやや慌《あわ》てたやうに、烏帽子《ゑぼし》の頭を後へ向けた。後には何時《いつ》か童《わらべ》が一人、ぢつと伏し眼になりながら、一通の文《ふみ》をさし出してゐる。何でもこれは一心に、笑ふのをこらへてゐたものらしい。
「消息《せうそこ》
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