》を持つた微笑である。同時に又手近い一切《いつさい》に、軽蔑を抱いた微笑である。頸《くび》は顔に比べると、寧《むし》ろ華奢《きやしや》すぎると評しても好い。その頸には白い汗衫《かざみ》の襟が、かすかに香を焚きしめた、菜の花色の水干《すゐかん》の襟と、細い一線を画《ゑが》いてゐる。顔の後にほのめいてゐるのは、鶴を織り出した几帳《きちやう》であらうか? それとものどかな山の裾に、女松《めまつ》を描いた障子であらうか? 兎に角曇つた銀のやうな、薄白い明《あかる》みが拡がつてゐる。……
 これが古い物語の中から、わたしの前に浮んで来た「天《あめ》が下《した》の色好《いろごの》み」平《たひら》の貞文《さだぶみ》の似顔である。平の好風《よしかぜ》に子が三人ある、丁度その次男に生まれたから、平中《へいちゆう》と渾名《あだな》を呼ばれたと云ふ、わたしの Don Juan の似顔である。

     二 桜

 平中は柱によりかかりながら、漫然と桜を眺めてゐる。近々と軒に迫つた桜は、もう盛りが過ぎたらしい。そのやや赤みの褪《あ》せた花には、永い昼過ぎの日の光が、さし交《かは》した枝の向き向きに、複雑な影を投げ合つてゐる。が、平中の眼は桜にあつても、平中の心は桜にない。彼はさつきから漫然と、侍従《じじゆう》の事を考へてゐる。
「始めて侍従を見かけたのは、――」
 平中はかう思ひ続けた。
「始めて侍従を見かけたのは、――あれは何時《いつ》の事だつたかな? さうさう、何でも稲荷詣《いなりまう》でに出かけると云つてゐたのだから、初午《はつうま》の朝だつたのに違ひない。あの女が車へ乗らうとする、おれが其処へ通りかかる、――と云ふのが抑々《そもそも》の起りだつた。顔は扇をかざした陰にちらりと見えただけだつたが、紅梅や萌黄《もえぎ》を重ねた上へ、紫の袿《うちぎ》をひつかけてゐる、――その容子《ようす》が何とも云へなかつた。おまけに※[#「車+非」、第4水準2−89−66]《はこ》へはひる所だから、片手に袴をつかんだ儘《まま》、心もち腰をかがめ加減にした、――その又恰好もたまらなかつたつけ。本院の大臣《おとど》の御屋形《おんやかた》には、ずゐぶん女房も沢山ゐるが、まづあの位なのは一人もないな。あれなら平中が惚《ほ》れたと云つても、――」
 平中はちよいと真顔《まがほ》になつた。
「だが本当に惚れてゐ
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