鷺と鴛鴦
芥川龍之介
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)銀座《ぎんざ》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)二三年|前《まへ》
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(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「均のつくり」、第3水準1−14−75]《にほひ》
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二三年|前《まへ》の夏である。僕は銀座《ぎんざ》を歩いてゐるうちに二人《ふたり》の女を発見した。それも唯の女ではない。はつと思ふほど後《うし》ろ姿の好《い》い二人の女を発見したのである。
一人《ひとり》は鷺《さぎ》のやうにすらりとしてゐる。もう一人は――この説明はちよつと面倒である。古来姿の好いと云ふのは揚肥《やうひ》よりも趙痩《てうそう》を指したものらしい。が、もう一人は肥《ふと》つてゐる。中肉《ちうにく》以上に肥つてゐる。けれども体の吊《つ》り合ひは少しもその為に損はれてゐない。殊に腰を振るやうに悠々と足を運ぶ容子《ようす》は鴛鴦《をしどり》のやうに立派《りつぱ》である。対《つゐ》の縞《しま》あかしか何かの着物にやはり対《つゐ》の絽《ろ》の帯をしめ、当時流行の網をかけた対のパラソルをした所を見ると、或は姉《ねえ》さんに妹かも知れない。僕は丁度《ちやうど》この二人《ふたり》をモデル台の上へ立たせたやうに、あらゆる面と線とを鑑賞した。由来夏の女の姿は着てゐるものの薄い為に、――そんなことは三十年|前《まへ》から何度も婦人雑誌に書かれてゐる。
僕はなほ念の為にこの二人を通り越しながら、ちらりと顔を物色《ぶつしよく》した。確かにこの二人は姉妹《しまい》である。のみならずどちらも同じやうにスペイド形《がた》の髪に結《ゆ》つた二十《はたち》前後の美人である。唯|鴛鴦《をしどり》は鷺《さぎ》よりも幾分か器量は悪いかも知れない。僕はそれぎりこの二人を忘れ、ぶらぶら往来《わうらい》を歩いて行つた。往来は前にも云つた通り、夏の日の照りつけた銀座である。僕の彼等を忘れたのは必ずしも僕に内在する抒情詩《ぢよじやうし》的素質の足《た》りない為ではない。寧《むし》ろハンケチに汗をふいたり、夏帽子を扇の代りにしたり、爍金《しやくきん》の暑《しよ》と闘ふ為に心力《しんりよく》を費してゐたからである。
しかし彼是《かれこれ》十分の後《のち》、銀座四丁目《ぎんざよんちやうめ》から電車に乗ると、直《すぐ》に又彼等も同じ電車へ姿を現したのは奇遇《きぐう》である。電車はこみ合つてはゐなかつたものの、空席《くうせき》はやつと一つしかない。しかもその空席のあるのは丁度《ちやうど》僕の右鄰《みぎどおり》である。鷺《さぎ》は姉《ねえ》さん相当にそつと右鄰へ腰を下した。鴛鴦《をしどり》は勿論|姉《あね》の前の吊《つ》り革に片手を托してゐる。僕は持つてゐた本をひろげ、夏読まずとも暑苦しいマハトマ・ガンデイ伝を征服し出した。いや、征服し出したのではない。征服し出さうと思つただけである。僕は電車の動きはじめる拍子《ひやうし》に、鴛鴦の一足《ひとあし》よろめいたのを見ると、忽ち如何《いか》なる紳士《しんし》よりも慇懃《いんぎん》に鴛鴦へ席を譲《ゆづ》つた。同時に彼等の感謝するのを待たず、さつさと其処《そこ》から遠ざかつてしまつた。利己主義者《りこしゆぎしや》を以て任ずる僕の自己犠牲を行《おこな》つたのは偶然ではない。鴛鴦は顔を下から見ると、長ながと鼻毛《はなげ》を伸してゐる。鷺も亦《また》無精《ぶしやう》をきめてゐるのか、髪の臭《くさ》さは一通りではない。それ等はまだ好《い》いとしても、彼等の熱心に話してゐたのはメンスラテイオンか何かに関する臨床医科的の事実である。
爾来《じらい》「夏の女の姿」は不幸にも僕には惨憺《さんたん》たる幻滅《げんめつ》の象徴になつてゐる。日盛りの銀座の美人などは如何《いか》に嬋娟窈窕《せんけんえうてう》としてゐても、うつかり敬意を表するものではない。少くとも敬意を表する前には※[#「均のつくり」、第3水準1−14−75]《にほひ》だけでも嗅《か》いで見るものである。……
[#地から1字上げ](大正十三年六月)
底本:「筑摩全集類聚 芥川龍之介全集第四巻」筑摩書房
1971(昭和46)年6月5日初版第1刷発行
1979(昭和54)年4月10日初版第11刷発行
入力:土屋隆
校正:松永正敏
2007年6月26日作成
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終わり
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