轤ク。況《いはん》や方今の青年子女、レツテルの英語は解すれども、四書の素読《そどく》は覚束《おぼつか》なく、トルストイの名は耳に熟すれども、李青蓮《りせいれん》の号は眼に疎《うと》きもの、紛々《ふんぷん》として数へ難し。頃日《けいじつ》偶《たまたま》書林の店頭に、数冊の古《ふる》雑誌を見る。題して紅潮社《こうていしや》発兌《はつだ》紅潮第何号と云ふ。知らずや、漢語に紅潮と云ふは女子の月経に外《ほか》ならざるを。(四月十六日)
入月
西洋に女子の紅潮《こうてう》を歌へる詩ありや否や、寡聞《くわぶん》にして未《いまだ》之を知らず。支那には宮掖閨閤《きゆうえきけいかふ》の詩中、稀《まれ》に月経を歌へるものあり。王建《わうけん》が宮詞《きゆうし》に曰《いはく》、「密奏君王知入月《くんわうにみつそうしつきにいるをしる》、喚人相伴洗裙裾《ひとをよんであひともなつてくんきよをあらふ》」と。春風《しゆんぷう》珠簾《しゆれん》を吹いて、銀鉤《ぎんこう》を蕩《たう》するの処、蛾眉《がび》の宮人の衣裙《いくん》を洗ふを見る、月事《げつじ》も亦《また》風流ならずや。(四月十六日)
遺精
西洋に男子の遺精《ゐせい》を歌へる詩ありや否や、寡聞にして未《いまだ》之を知らず。日本には俳諧|錦繍段《きんしうだん》に、「遺精驚く暁のゆめ、神叔《しんしゆく》」とあり。但《ただし》この遺精の語義、果して当代に用ふる所のものと同じきや否やを詳《つまびらか》にせず。識者の示教《しけう》を得ば幸甚《かうじん》なり。(四月十六日)
後世
君見ずや。本阿弥《ほんあみ》の折紙《をりかみ》古今《ここん》に変ず。羅曼《ロマン》派起つてシエクスピイアの名、四海に轟く事|迅雷《じんらい》の如く、羅曼派亡んでユウゴオの作、八方に廃《すた》るる事|霜葉《さうえふ》に似たり。茫々たる流転《るてん》の相《さう》。目前は泡沫、身後《しんご》は夢幻。智音《ちいん》得可からず。衆愚度し難し。フラゴナアルの技《ぎ》を以太利《イタリイ》に修めんとするや、ブウシエその行《かう》を送つて曰《いはく》、「ミシエル・アンジユが作を見ること勿《なか》れ。彼が如きは狂人のみ」と。ブウシエを哂《わら》つて俗漢と做《な》す。豈《あに》敢《あへ》て難しとせんや。遮莫《さもあらばあれ》千年の後《のち》、天下|靡然《びぜん》としてブウシエの見《けん》に赴《おもむ》く事無しと云ふ可らず。白眼《はくがん》当世に傲《おご》り、長嘯《ちやうせう》後代を待つ、亦《また》是《これ》鬼窟裡《きくつり》の生計のみ。何ぞ若《し》かん、俗に混じて、しかも自《みづか》ら俗ならざるには。籬《まがき》に菊有り。琴《こと》に絃《げん》無し。南山《なんざん》見|来《きた》れば常に悠々。寿陵余子《じゆりようよし》文を陋屋《ろうをく》に売る。願くば一生|後生《こうせい》を云はず、紛々《ふんぷん》たる文壇の張三李四《ちやうさんりし》と、トルストイを談じ、西鶴《さいかく》を論じ、或は又甲主義乙傾向の是非曲直を喋々《てふてふ》して、遊戯|三昧《ざんまい》の境《きやう》に安んぜんかな。(五月二十六日)
罪と罰
鴎外《おうぐわい》先生を主筆とせる「しがらみ草紙《さうし》」第四十七号に、謫天情僊《たくてんじやうせん》の七言絶句《しちごんぜつく》、「読罪与罰上篇《つみとばつじやうへんをよむ》」数首あり。泰西《たいせい》の小説に題するの詩、嚆矢《かうし》恐らくはこの数首にあらんか。左にその二三を抄出すれば、「考慮閃来如電光《かうりよひらめききたつてでんくわうのごとし》、茫然飛入老婆房《ばうぜんとんでいるらうばのばう》、自談罪跡真耶仮《みづからだんずざいせきしんかかか》、警吏暗殺狂不狂《けいりあんさつすきやうかふきやうか》」(第十三回)「窮女病妻哀涙紅《きゆうぢよびやうさいあいるゐくれなゐに》、車声轣轆仆家翁《しやせいれきろくとしてかをうたふる》、傾嚢相救客何侠《なうをかたむけてあひすくうふかくなんぞけふなる》、一度相逢酒肆中《いちどあひあふしゆしのうち》」(第十四回)「可憐小女去邀賓《かれんのせうぢよさつてひんをむかへ》、慈善書生半死身《じぜんのしよせいはんしのみ》、見到室中無一物《みいたるしつちういちぶつなし》、感恩人是動情人《かんおんのひとはこれどうじやうのひと》」(第十八回)の如し。詩の佳否《かひ》は暫く云はず、明治二十六年の昔、既に文壇ドストエフスキイを云々するものありしを思へば、この数首の詩に対して破顔一番するを禁じ難きもの、何ぞ独り寿陵余子《じゆりようよし》のみならん。(五月二十七日)
悪魔
悪魔の数|甚《はなはだ》多し。総数百七十四万五千九百二十六匹あり。分つて七十二隊を為《な》し、一隊毎に隊長一匹を置くとぞ。是れ十六世紀の末葉、独人 Wierus が悪魔学に載する所、古今《ここん》を問はず、東西を論ぜず、魔界の消息を伝へて詳密なる、斯《か》くの如きものはあらざるべし。(十六世紀の欧羅巴《ヨオロツパ》には、悪魔学の先達《せんだつ》尠《すくな》からず。ウイルスが外にも、以太利《イタリイ》の Pietro d'Apone の如き、英克蘭《イングランド》の Reginald Soct の如き、皆天下に雷名あり。)又|曰《いはく》、「悪魔の変化《へんげ》自在《じざい》なる、法律家となり、昆侖奴《こんろんぬ》となり、黒驪《こくり》となり、僧人となり、驢《ろ》となり、猫となり、兎となり、或は馬車の車輪となる」と。既に馬車の車輪となる。豈《あに》半夜人を誘《いざな》つて、煙火城中に去らんとする自動車の車輪とならざらんや。畏《おそ》る可く、戒む可し。(五月二十八日)
聊斎志異
聊斎志異《れうさいしい》が剪燈新話《せんとうしんわ》と共に、支那小説中、鬼狐《きこ》を説いて、寒燈為に青からんとする妙を極めたるは、洽《あまね》く人の知る所なるべし。されど作者|蒲松齢《ほしようれい》が、満洲朝廷に潔《いさぎよ》からざるの余り、牛鬼蛇神《ぎうきだしん》の譚《ものがたり》に託して、宮掖《きゆうえき》の隠微を諷したるは、往々本邦の読者の為に、看過《かんくわ》せらるるの憾《うら》みなきに非ず。例へば第二巻所載|侠女《けふじよ》の如きも、実は宦人《くわんじん》年羹堯《ねんかうげう》の女《ぢよ》が、雍正帝《ようせいてい》を暗殺したる秘史の翻案に外ならずと云ふ。崑崙外史《こんろんぐわいし》の題詞に、「董狐豈独人倫鑒《とうこあにひとりじんりんのかんならんや》」と云へる、亦《また》這般《しやはん》の消息を洩らせるものに非ずして何ぞや。西班牙《スペイン》にゴヤの Los Caprichos あり。支那に留仙《りうせん》の聊斎志異《れうさいしい》あり。共に山精野鬼《さんせいやき》を借りて、乱臣賊子を罵殺せんとす。東西一双の白玉瓊《はくぎよくけい》、金匱《きんき》の蔵《ざう》に堪へたりと云ふべし。(五月二十八日)
麗人図
西班牙《スペイン》に麗人あり。Dona Maria Theresa と云ふ。若くしてヴイラフランカ十一代の侯 〔Don Jose' Alvalez de Toledo〕 に嫁す。明眸絳脣《めいぼうかうしん》、香肌《かうき》白き事|脂《し》の如し。女王マリア・ルイザ、その美を妬《ねた》み、遂に之を鴆殺《ちんさつ》せしむ。人間《じんかん》止《とど》め得たり一香嚢の長恨ある、かの楊太真《やうたいしん》と何《いづ》れぞや。侯爵夫人に情郎《じやうらう》あり。Francesco de Goya と云ふ。ゴヤは画名を西班牙に馳《は》するもの、生前|屡《しばしば》ドンナ・マリア・テレサの像を描《ゑが》く。俗伝にして信ずべくんば、Maja vestida と Maja desnuda との両画幀《りやうぐわたう》、亦《また》実に侯爵夫人が一代の国色を伝ふるが如し。後年|仏蘭西《フランス》に一画家あり。Edouard Manet と云ふ。ゴヤが侯爵夫人の画像を得て、狂喜|自《みづか》ら禁ずる能《あた》はず。直《ただち》にその画像を模して、一幀《いつたう》春の如き麗人図を作る。マネ時に印象派の先達《せんだつ》たり。交《かう》を彼と結ぶもの、当世の才人|尠《すくな》からず。その中に一詩人あり。Charles Baudelaire と云ふ。マネが侯爵夫人の画像を得て、愛翫《あいがん》する事|洪璧《こうへき》の如し。千八百六十六年、ボオドレエルの狂疾を発して、巴里《パリ》の寓居に絶命するや、壁間|亦《また》この檀口雪肌《だんこうせつき》、天仙の如き麗人図あり。星眼|長《とこし》へに秋波を浮べて、「悪の華《はな》」の詩人が臨終を見る、猶《なほ》往年マドリツドの宮廷に、黄面の侏儒《しゆじゆ》が筋斗《きんと》の戯《ぎ》を傍観するが如くなりしと云ふ。(五月二十九日)
売色鳳香餅
支那に龍陽《りやうやう》の色《しよく》を売る少年を相公《しやうこう》と云ふ。相公の語、もと像姑《しやうこ》より出づ。妖※[#「女+堯」、第4水準2−5−82]《えいぜう》恰《あたか》も姑娘《こぢやう》の如くなるを云ふなり。像姑相公同音相通ず。即《すなはち》用ひて陰馬《いんば》の名に換へたるのみ。支那に路上春を鬻《ひさ》ぐの女《ぢよ》を野雉《やち》と云ふ。蓋《けだ》し徘徊|行人《かうじん》を誘《いざな》ふ、恰《あたか》も野雉の如くなるを云ふなり。邦語にこの輩を夜鷹《よたか》と云ふ。殆《ほとんど》同一|轍《てつ》に出づと云ふべし。野雉の語行はれて、野雉車《やちしや》の語出づるに至る。野雉車とは仰《そも》何ぞ。北京《ペキン》上海《シヤンハイ》に出没する、無鑑札の朦朧車夫《もうろうしやふ》なり。(五月三十日)
泥黎口業
寿陵余子《じゆりようよし》雑誌「人間《にんげん》」の為に、骨董羹《こつとうかん》を書く事既に三回。東西|古今《ここん》の雑書を引いて、衒学《げんがく》の気焔を挙ぐる事、恰《あたか》もマクベス曲中の妖婆《えうば》の鍋《なべ》に類せんとす。知者は三千里外にその臭を避け、昧者《まいしや》は一弾|指間《しかん》にその毒に中《あた》る。思ふに是|泥黎《でいり》の口業《こうげふ》。羅貫中《らくわんちう》水滸伝《すゐこでん》を作つて、三生唖子《さんせいあし》を生むとせば、寿陵余子|亦《また》骨董羹を書いて、仰《そも》如何《いかん》の冥罰《みやうばつ》をか受けん。黙殺か。撲滅か。或は余子の小説集、一冊も市《いち》に売れざるか。若《し》かず、速《すみやか》に筆を投じて、酔中独り繍仏《しうぶつ》の前に逃禅《たうぜん》の閑を愛せんには。昨の非を悔い今《こん》の是《ぜ》を知る。何《なん》ぞ須臾《しゆゆ》も踟※[#「足へん+廚」、79−上−3]《ちちう》せん。抛下《はうか》す、吾家《ごか》の骨董羹。今日《こんにち》喫《きつ》し得て珍重《ちんちよう》ならば、明日《みやうにち》厠上《しじやう》に瑞光あらん。糞中の舎利《しやり》、大家《たいか》看《み》よ。(五月三十日)
* * *
天路歴程
Pilgrim's Progress を天路歴程《てんろれきてい》と翻訳するのは清の同治八年(西暦千八百六十九年)上海華草書館にて出版せる漢訳の名を踏襲《たうしふ》せるにや。この書、篇中の人物風景を悉《ことごとく》支那風に描きたる銅版画の※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]画数葉あり。その入窄門図《にふさくもんづ》の如き、或は入美宮図の如き、長崎絵の紅毛人に及ばざれど、亦一種の風韻《ふうゐん》無きに非らず。文章も漢を以て洋を叙《じよ》するの所、読み来り読み去つて感興反つて尠《すくな》からざるを覚ゆ。殊にその英詩を翻訳したる、詩としては見るに堪へざらんも、別様の趣致あるは※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]画と一なり。譬《たと》
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