骨董羹
―寿陵余子の仮名のもとに筆を執れる戯文―
芥川龍之介
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)葛飾北斎《かつしかほくさい》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)人生|幸《さいはひ》に
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]画
〔〕:アクセント分解された欧文をかこむ
(例)〔Jose’ Maria de Heredia〕
アクセント分解についての詳細は下記URLを参照してください
http://aozora.gr.jp/accent_separation.html
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別乾坤
Judith Gautier が詩中の支那は、支那にして又支那にあらず。葛飾北斎《かつしかほくさい》が水滸画伝《すゐこぐわでん》の※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]画《さしゑ》も、誰か又是を以て如実《によじつ》に支那を写したりと云はん。さればかの明眸《めいぼう》の女詩人《ぢよしじん》も、この短髪の老画伯も、その無声の詩と有声の画《ぐわ》とに彷弗《はうふつ》たらしめし所謂《いはゆる》支那は、寧《むし》ろ[#「寧《むし》ろ」は底本では「寧《むら》ろ」]彼等が白日夢裡《はくじつむり》に逍遙遊《せうえうゆう》を恣《ほしいまま》にしたる別乾坤《べつけんこん》なりと称すべきか。人生|幸《さいはひ》にこの別乾坤あり。誰か又|小泉八雲《こいづみやくも》と共に、天風海濤《てんぷうかいたう》の蒼々浪々たるの処、去つて還らざる蓬莱《ほうらい》の蜃中楼《しんちうろう》を歎く事をなさん。(一月二十二日)
軽薄
元《げん》の李※[#「行がまえ<干」、69−上−16]《りかん》、文湖州《ぶんこしう》の竹を見る数十|幅《ふく》、悉《ことごとく》意に満たず。東坡《とうば》山谷等《さんこくら》の評を読むも亦《また》思ふらく、その交親に私《わたくし》するならんと。偶《たまたま》友人|王子慶《わうしけい》と遇ひ、話次《わじ》文湖州の竹に及ぶ。子慶|曰《いはく》、君|未《いまだ》真蹟を見ざるのみ。府史の蔵本|甚《はなはだ》真《しん》、明日《みやうにち》借り来つて示すべしと。翌日|即《すなはち》之を見れば、風枝抹疎《ふうしまつそ》として塞煙《さいえん》を払ひ、露葉蕭索《ろえふせうさく》として清霜を帯ぶ、恰《あたか》も渭川《ゐせん》淇水《きすゐ》の間《かん》に坐するが如し。※[#「行がまえ<干」、69−下−4]《かん》感歎|措《お》く能《あた》はず。大いに聞見の寡陋《くわろう》を恥ぢたりと云ふ。※[#「行がまえ<干」、69−下−5]の如きは未《いまだ》恕《じよ》すべし。かの写真版のセザンヌを見て色彩のヴアリユルを喋々《てふてふ》するが如き、論者の軽薄唾棄するに堪へたりと云ふべし。戒めずんばあるべからず。(一月二十三日)
俗漢
バルザツクのペエル・ラシエエズの墓地に葬らるるや、棺側に侍するものに内相バロツシユあり。送葬の途上同じく棺側にありしユウゴオを顧みて尋ぬるやう、「バルザツク氏は材能の士なりしにや」と。ユウゴオ※[#「口+弗」、第3水準1−14−92]吁《ふつく》として答ふらく「天才なり」と。バロツシユその答にや憤《いきどほ》りけん傍人《ばうじん》に囁《ささや》いて云ひけるは、「このユウゴオ氏も聞きしに勝《まさ》る狂人なり」と。仏蘭西《フランス》の台閣《だいかく》亦《また》這般《しやはん》の俗漢なきにあらず。日東帝国の大臣諸公、意を安んじて可なりと云ふべし。(一月二十四日)
同性恋愛
ドオリアン・グレエを愛する人は Escal Vigor を読まざる可《べ》からず。男子の男子を愛するの情、この書の如く遺憾なく描写せられしはあらざる可し。書中若しこれを翻訳せんか。我当局の忌違《きゐ》に触れん事疑なきの文字少からず。出版当時有名なる訴訟《そしよう》事件を惹起《じやくき》したるも、亦《また》是等|艶冶《えんや》の筆《ひつ》の累《るゐ》する所多かりし由。著者 George Eekhoud は白耳義《ベルギイ》近代の大手筆《だいしゆひつ》なり。声名|必《かならず》しもカミユ・ルモニエエの下にあらず。されど多士|済々《せいせい》たる日本文壇、未《いまだ》この人が等身の著述に一言《いちげん》の紹介すら加へたるもの無し。文芸|豈《あに》独り北欧の天地にのみ、オウロラ・ボレアリスの盛観をなすものならんや。(一月二十五日)
同人雑誌
年少の子弟|醵金《きよきん》して、同人雑誌《どうじんざつし》を出版する事、当世の流行の一つなるべし。されど紙代印刷費用共に甚《はなはだ》廉《れん》ならざる今日《こんにち》、経営に苦しむもの亦《また》少からず。伝へ聞く、ル・メルキウル・ド・フランスが初号を市《いち》に出《いだ》せし時も、元《もと》より文壇不遇の士の黄白《くわうはく》に裕《ゆたか》なる筈なければ、やむ無く一株《ひとかぶ》六十|法《フラン》の債券を同人に募りしかど、その唯一《ゆゐいち》の大《おほ》株主たるジユウル・ルナアルが持株すら僅々《きんきん》四株に過ぎざりしとぞ。しかもその同人の中には、アルベエル・サマンの如き、レミ・ド・グルモンの如き、一代の才人多かりしを思へば、当世流行の同人雑誌と雖《いへど》も、資金の甚《はなはだ》潤沢《じゆんたく》ならざるを憾《うら》むべき理由なきに似たり。唯、得難きは当年のル・メルキウルに、象徴主義の大旆《たいはい》を樹《た》てしが如き英霊底《えいれいてい》の漢《かん》一ダアスのみ。(一月二十六日)
雅号
日本の作家今は多く雅号《ががう》を用ひず。文壇の新人旧人を分つ、殆《ほとんど》雅号の有無を以てすれば足るが如し。されば前《さき》に雅号ありしも捨てて用ひざるさへ少からず。雅号の薄命なるも亦《また》甚しいかな。露西亜《ロシア》の作家にオシツプ・デイモフと云ふものあり。チエホフが短篇「蝗《いなご》」の主人公と同名なりしと覚ゆ。デイモフはその名を借りて雅号となせるにや。博覧の士の示教《しけう》を得れば幸甚《かうじん》なり。(一月二十八日)
青楼
仏蘭西《フランス》語に妓楼《ぎろう》を la maison verte と云ふは、ゴンクウルが造語なりとぞ。蓋《けだ》し青楼美人合せの名を翻訳せしに出づるなるべし。ゴンクウルが日記に云ふ。「この年(千八百八十二年)わが病的なる日本美術品|蒐集《しうしふ》の為に費《つひや》せし金額、実に三千|法《フラン》に達したり。これわが収入の全部にして、懐中時計を購《あがな》ふべき四十|法《フラン》の残余さへ止《とど》めず」と。又云ふ。「数日以来(千八百七十六年)日本に赴《おもむ》かばやと思ふ心|止《とど》め難し。されどこの旅行はわが日頃の蒐集《しうしふ》癖を充《みた》さんが為のみにはあらず。われは夢む、一巻の著述を成さん事を。題は『日本の一年』。日記の如き体裁。叙述よりも情調。かくせば比類なき好文字《かうもんじ》を得べし。唯、わがこの老《らう》を如何《いかん》」と。日本の版画を愛し、日本の古玩《こぐわん》を愛し、更に又日本の菊花を愛せる伶※[#「にんべん+娉のつくり」、71−上−5]《れいへい》孤寂《こじやく》のゴンクウルを想《おも》へば、青楼の一語短なりと雖《いへど》も、無限の情味なき能《あた》はざるべし。(一月二十九日)
言語
言語は元《もと》より多端なり。山《さん》と云ひ、嶽《がく》と云ひ、峯《ほう》と云ひ、巒《らん》と云ふ。義の同うして字の異なるを用ふれば、即ち意を隠微の間《かん》に偶《ぐう》するを得べし。大食《おほぐら》ひを大松《だいまつ》と云ひ差出者《さしでもの》を左兵衛次《さへゑじ》と云ふ。聞くものにして江戸つこならざらんか、面罵せらるるも猶《なほ》恬然《てんぜん》たらん。試《こころみ》に思へ、品蕭《ひんせう》の如き、後庭花《こうていくわ》の如き、倒澆燭《たうげうしよく》の如き、金瓶梅《きんぺいばい》肉蒲団《にくぶとん》中の語彙《ごゐ》を借りて一篇の小説を作らん時、善くその淫褻《いんせつ》俗を壊《やぶ》るを看破すべき検閲官の数《すう》何人なるかを。(一月三十一日)
誤訳
カアライルが独逸《ドイツ》文の翻訳に誤訳指摘を試みしはデ・クインシイがさかしらなり。されどチエルシイの哲人はこの後進の鬼才を遇する事|
反《かへ》つて甚《はなはだ》篤《あつ》かりしかば、デ・クインシイも亦《また》その襟懐に服して百年の心交を結びたりと云ふ。カアライルが誤訳の如何《いか》なりしかは知らず。予が知れる誤訳の最も滑稽なるはマドンナを奥さんと訳せるものなり。訳者は楽園の門を守る下僕天使にもあらざるものを。(二月一日)
戯訓
往年|久米正雄《くめまさを》氏シヨウを訓して笑迂《せうう》と云ひ、イブセンを訓して燻仙《いぶせん》と云ひ、メエテルリンクを訓して瞑照燐火《めいてるりんくわ》と云ひ、チエホフを訓して知慧豊富《ちゑほうふ》と云ふ。戯訓《ぎくん》と称して可ならん乎《か》。二人比丘尼《ににんびくに》の作者|鈴木正三《すずきしやうざう》、その耶蘇教《やそけう》弁斥《べんせき》の書に題して破鬼理死端《はきりしたん》と云ふ。亦《また》悪意ある戯訓の一例たるべし。(二月二日)
俳句
紅葉《こうえふ》の句|未《いまだ》古人霊妙の機を会せざるは、独りその談林調《だんりんてう》たるが故のみにもあらざるべし。この人の文を見るも楚々《そそ》たる落墨|直《ただち》に松を成すの妙はあらず。長ずる所は精整緻密《せいせいちみつ》、石を描《ゑが》いて一細草《いちさいさう》の点綴《てんてい》を忘れざる功《かう》にあり。句に短なりしは当然ならずや。牛門《ぎうもん》の秀才|鏡花《きやうくわ》氏の句品《くひん》遙に師翁《しをう》の上に出づるも、亦《また》この理に外ならざるのみ。遮莫《さもあらばあれ》斎藤緑雨《さいとうりよくう》が彼《かの》縦横の才を蔵しながら、句は遂に沿門※[#「てへん+蜀」、71−下−22]黒《えんもんさくこく》の輩《はい》と軒輊《けんち》なかりしこそ不思議なれ。(二月四日)
松並木
東海道《とうかいだう》の松並木《まつなみき》伐《き》らるべき由、何時《いつ》やらの新聞紙にて読みたる事あり。元《もと》より道路改修の為とあれば止むを得ざるには似たれども、これが為に百尺《ひやくせき》の枯龍《こりゆう》斧鉞《ふゑつ》の災《さい》を蒙《かうむ》るもの百千なるべきに想到すれば、惜みても猶《なほ》惜むべき限りならずや。ポオル・クロオデル日本に来りし時、この東海道の松並木を見て作る所の文一篇あり。痩蓋《そうがい》煙を含み危根《きこん》石を倒すの状、描《ゑが》き得て霊彩《れいさい》奕々《えきえき》たりと云ふべし。今やこの松並木亡びんとす。クロオデルもしこれを聞かば、或は恐る、黄面《くわうめん》の豎子《じゆし》未《いまだ》王化に浴せずと長太息《ちやうたいそく》に堪へざらん事を。(二月五日)
日本
ゴオテイエが娘の支那《シナ》は既に云ひぬ。〔Jose' Maria de Heredia〕 が日本も亦《また》別乾坤《べつけんこん》なり。簾裡《れんり》の美人|琵琶《びは》を弾《たん》じて鉄衣の勇士の来《きた》るを待つ。景情|元《もと》より日本ならざるに非ず。(le samourai)されどその絹の白と漆と金《きん》とに彩《いろど》られたる世界は、却《かへ》つて是|縹渺《へうべう》たるパルナシアンの夢幻境のみ。しかもエレデイアの夢幻境たる、もしその所在を地図の上に按じ得べきものとせんか、恐らく仏蘭西《フランス》には近けれども、日本には遙《はるか》に
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