B「絶頂新秋生夜涼《ぜつちやうのしんしうやりやうをしやうず》。鶴翻松露滴衣裳《つるはひるがへつてしようろいしやうにしたたる》。前峯月照一江水《ぜんぽうつきはてるいつかうのみづ》。僧在翠微開竹房《そうはすゐびにあつてちくばうをひらく》。」題し畢《をは》つて後《のち》行く事数十里、途上|一江水《いつかうすゐ》は半江水《はんかうすゐ》に若《し》かざるを覚り、直《ただち》に題詩の処に回《かへ》れば、何人《なんびと》か既《すで》に「一」字を削《けづ》つて「半」字に改めし後《のち》なりき。翻長太息《はんちやうたいそく》に堪へずして曰《いはく》、台州《たいしう》有人《ひとあり》と。古人が詩に心を用ふる、惨憺経営の跡想ふべし。青々《せいせい》が句集|妻木《つまぎ》の中に、「初夢や赤《あけ》なる紐《ひも》の結ぼほる」の句あり。予思ふらく、一字不可、「る」字に易《か》ふに「れ」字を以てすれば可ならんと。知らず、青々予を拝して能く一字の師と做《な》すや否や。一笑。(二月二十六日)

     応酬

 ユウゴオ一夕宴をアヴニウ・デイロオの自邸に張る。偶《たまたま》衆客《しゆうかく》皆《みな》杯《さかづき》を挙げて主人の健康を祝するや、ユウゴオ傍《かたはら》なるフランソア・コツペエを顧みて云ふやう、「今この席上なる二詩人|迭《たがひ》に健康を祝さんとす。亦《また》善からずや」と。意コツペエが為に乾杯せんとするにあり。コツペエ辞して云ふ、「否、否、座間《ざかん》詩人は唯|一人《いちにん》あるのみ」と。意詩人の名に背《そむ》かざるものは唯ユウゴオ一人《いちにん》のみなるを云ふなり。時に「オリアンタアル」の作者、忽ち破顔して答ふるやう、「詩人は唯|一人《いちにん》あるのみとや。善し、さらば我は如何《いかに》」と。意コツペエが言を翻《ひるがへ》しておのが仰損を示せるなり。曰く「僧院の秋」の会、曰く「三浦《みうら》製糸場主」の会、曰く猫の会、曰く杓子《しやくし》の会、方今《はうこん》の文壇会|甚《はなはだ》多しと雖《いへど》も、未《いまだ》滑脱《くわつだつ》の妙を極めたる、斯《か》くの如き応酬ありしを聞かず。傍《かたはら》に人あり。嗤《わら》つて云ふ、「請ふ、隗《くわい》より始めよ」と。(二月二十七日)

     白雨禅

 狩野芳涯《かのうはうがい》常に諸弟子《しよていし》に教へて曰《いはく》、「画《ぐわ》の神理、唯|当《まさ》に悟得《ごとく》すべきのみ。師授によるべからず」と。一日芳涯病んで臥《ふ》す。偶《たまたま》白雨天を傾けて来り、深巷《しんかう》寂《せき》として行人《かうじん》を絶つ。師弟共に黙して雨声《うせい》を聴《き》くもの多時、忽ち一人《いちにん》あり。高歌して門外を過ぐ。芳涯|莞爾《くわんじ》として、諸弟子を顧みて曰、「会《ゑ》せりや」と。句下殺人の意あり。吾家《ごか》の吹毛剣《すゐまうけん》、単于《ぜんう》千金に購《あがな》ひ、妖精|太陰《たいいん》に泣く。一道の寒光、君看取せよ。(三月三日)

     批評

 ピロンが、皮肉は世に聞えたり。一文人彼に語るに前人未発の業を成さん事を以てす。ピロン冷然として答ふらく、「易々《いい》たるのみ。君自身の讃辞《さんじ》を作らば可」と。当代の文壇、聞くが如くんば、党派批評あり。売笑批評あり。挨拶《あいさつ》批評あり。雷同批評あり。紛々《ふんぷん》たる毀誉褒貶《きよはうへん》、庸愚《ようぐ》の才が自讃の如きも、一犬の虚に吠ゆる処、万犬|亦《また》実を伝へて、必《かならず》しもピロンが所謂《いはゆる》、前人未発の業と做《な》す可《べか》らず。寿陵余子《じゆりようよし》生れてこの季世にあり。ピロンたるも亦《また》難いかな。(三月四日)

     誤謬

 門前の雀羅《じやくら》蒙求《もうぎう》を囀《さへづ》ると説く先生あれば、燎原《れうげん》を焼く火の如しと辯ずる夫子《ふうし》あり。明治神宮の用材を賛《さん》して、彬々《ひんひん》たるかな文質と云ふ農学博士あれば、海陸軍の拡張を議して、艨艟罷休《もうどうひきう》あらざる可らずと云ふ代議士あり。昔は姜度《きやうと》の子《こ》を誕《たん》するや、李林甫《りりんぼ》|手《しゆ》書を作つて曰《いはく》、聞く、弄※[#「鹿/章」、第3水準1−94−75]《ろうしやう》の喜《よろこび》ありと。客之を視て口を掩《おほ》ふ。蓋し林甫《りんぽ》の璋字《しやうじ》を誤つて、※[#「鹿/章」、第3水準1−94−75]字《しやうじ》を書せるを笑へるなり。今は大臣の時勢を慨するや、危険思想の瀰漫《びまん》を論じて曰、病既に膏盲《かうまう》[#「膏盲《かうまう》」はママ]に入る、国家の興廃旦夕にありと。然れども天下怪しむ者なし。漢学の素養の顧られざる、亦《また》甚しと云はざる可
前へ 次へ
全9ページ中5ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
芥川 竜之介 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング