セりあり。モオリス・ルブランが探偵小説の主人公|侠賊《けふぞく》リユパンが柔術に通じたるも、日本人より学びし所なりとぞ。されど日本現代の小説中、柔術の妙を極めし主人公は僅に泉鏡花《いづみきやうくわ》氏が「芍薬《しやくやく》の歌」の桐太郎《きりたらう》のみ。柔術も亦《また》予言者は故郷に容《い》れられざるの歎無きを得んや。好笑《かうせう》好笑。(二月十日)

     昨日の風流

 趙甌北《てうおうぼく》が呉門雑詩《ごもんざっし》に云ふ。看尽煙花細品評《えんくわをみつくしてこまかにひんぴやうす》、始知佳麗也虚名《はじめてしるかれいのまたきよめいなるを》、従今不作繁華夢《いまよりおこさずはんくわのゆめ》、消領茶煙一縷清《せうりやうすさえんいちるのせい》。又その山塘《さんたう》の詩に云ふ。老入歓場感易増《おいてくわんじやうにいればかんましやすし》、煙花猶記昔遊曾《えんくわなほしるすせきいうのそう》、酒楼旧日紅粧女《しゆろうきうじつこうしやうのぢよ》、已似禅家退院僧《すでににたりぜんかたいゐんのそう》。一腔《いつかう》の詩情|殆《ほとんど》永井荷風《ながゐかふう》氏を想はしむるものありと云ふべし。(二月十一日)

     発音

 ポオの名 Quantin 版に 〔Poe:〕 と印刷せられてより、仏蘭西《フランス》を始め諸方にポオエの発音行はれし由。予等が英文学の師なりし故ロオレンス先生も、時にポオエと発音せられしを聞きし事あり。西人《せいじん》の名の発音の誤り易きはさる事ながら、ホイツトマン、エマスンなどを崇《あが》め尊ぶ人のわが仏《ほとけ》の名さへアクセントを誤りたるは、無下《むげ》にいやしき心地せらる。慎《つつし》まざる可らざるなり。(二月十三日)

     傲岸不遜

 一青年作家或会合の席上にて、われら文芸の士はと云ひさせしに、傍《かたはら》なるバルザツク忽ちその語を遮《さへぎ》つて云ひけるは、「君の我等に伍せんとするこそ烏滸《をこ》がましけれ。我等は近代文芸の将帥《しやうすゐ》なるを」と。文壇の二三子|夙《つと》に傲岸不遜《がうがんふそん》の譏《そしり》ありと聞く。されど予は未《いまだ》一人《いちにん》のバルザツクに似たるものを見ず。元《もと》より人間喜劇の著述二三子の手に成るを聞かざれども。(二月十五日)

     煙草

 煙草《たばこ》の世に行はれしは、亜米利加《アメリカ》発見以後の事なり。埃及《エジプト》、亜剌比亜《アラビア》[#「亜剌比亜」は底本では「亜刺比亜」]、羅馬《ロオマ》などにも、喫煙の俗ありしと云ふは、青盲者流《せいまうしやりう》のひが言《ごと》のみ。亜米利加土人の煙を嗜《たしな》みしは、コロムブスが新世界に至りし時、既に葉巻あり、刻《きざ》みあり、嗅《かぎ》煙草ありしを見て知るべし。タバコの名も実は植物の名称ならで、刻みの煙を味ふべきパイプの意なりしぞ滑稽なる。されば欧洲の白色人種が喫煙に新機軸を出《いだ》したるは、僅に一事軽便なるシガレツトの案出ありしのみ。和漢三才図会《わかんさんさいづゑ》によれば、南蛮|紅毛《こうもう》の甲比丹《かびたん》がまづ日本に舶載《はくさい》したるも、このシガレツトなりしものの如し。村田《むらた》の煙管《きせる》未《いまだ》世に出でざりし時、われらが祖先は既にシガレツトを口にしつつ、春日《しゆんじつ》煦々《くく》たる山口の街頭、天主会堂の十字架を仰いで、西洋機巧の文明に賛嘆の声を惜まざりしならん。(二月二十四日)

     ニコチン夫人

 ボオドレエルがパイプの詩は元《もと》より、Lyra Nicotiana を翻《ひるがへ》すも、西洋詩人の喫煙を愛《め》づるは、東洋詩人の点茶《てんちや》を悦ぶと好一対《かういつつゐ》なりと云ふを得べし。小説にてはバリイが「ニコチン夫人」最も人口に※[#「口+會」、第3水準1−15−25]炙《くわいしや》したり。されど唯軽妙の筆《ひつ》、容易に読者を微笑せしむるのみ。ニコチンの名、もと仏蘭西《フランス》人ジアン・ニコツトより出づ。十六世紀の中葉、ニコツト大使の職を帯びて西班牙《スペイン》に派遣せらるるや、フロリダ渡来の葉煙草を得て、その医療に効あるを知り、栽培《さいばい》大いに努めしかば、一時は仏人煙草を呼んでニコチアナと云ふに至りしとぞ。デ・クインシイが「阿片《アヘン》喫煙者の懺悔《ざんげ》」は、さきに佐藤春夫《さとうはるを》氏をして「指紋《しもん》」の奇文を成さしめたり。誰か又バリイの後《のち》に出でて、バリイを抜く事数等なる、恰《あたか》もハヴアナのマニラに於ける如き煙草小説を書かんものぞ。(二月二十五日)

     一字の師

 唐《たう》の任翻《じんはん》天台巾子峯《てんだいきんしほう》に遊び、詩を寺壁に題して云ふ
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