氏の大幅な所を思わせる程達者だ。何でも平押しにぐいぐい押しつけて行く所がある。尤もその押して行く力が、まだ十分江口に支配され切っていない憾もない事はない。あの力が盲目力《ブラインドフォオス》でなくなる時が来れば、それこそ江口がほんとうの江口になり切った時だ。
江口は過去に於て屡弁難攻撃の筆を弄した。その為に善くも悪くも、いろいろな誤解を受けているらしい。江口を快男児にするも善い誤解の一つだ。悪い誤解の一つは江口を粗笨漢《そほんかん》扱いにしている。それらの誤解はいずれも江口の為に、払い去られなければならない。江口は快男児だとすれば、憂欝な快男児だ。粗笨漢だとすれば、余りに教養のある粗笨漢だ。僕は「新潮」の「人の印象」をこんなに長く書いた事はない。それが書く気になったのは、江口や江口の作品が僕等の仲間に比べると、一番歪んで見られているような気がしたからだ。こんな慌しい書き方をした文章でも、江口を正当に価値づける一助になれば、望外の仕合せだと思っている。
底本:「大川の水・追憶・本所両国 現代日本のエッセイ」講談社文芸文庫、講談社
1995(平成7)年1月10日第1刷発行
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