んとうらしい嘘だ。作の力、生命などと云うものは素人にもわかる。だからトルストイやドストエフスキイの翻訳が売れるのだ。ほんとうの批評家にしか分らなければ、どこの新劇団でもストリンドベルクやイブセンをやりはしない。作の力、生命を掴むばかりでなく、技巧と内容との微妙な関係に一隻眼を有するものが、始めてほんとうの批評家になれるのだ。江口の批評家としての強味は、この微妙な関係を直覚出来る点に存していると思う。これは何でもない事のようだが、存外今の批評家に欠乏している強味なのだ。
 最後に創作家としての江口は、大体として人間的興味を中心とした、心理よりも寧ろ事件を描く傾向があるようだ。「馬丁」や「赤い矢帆」には、この傾向が最も著しく現れていると思う。が、江口の人間的興味の後には、屡如何にしても健全とは呼び得ない異常性《アブノオマリティ》が富んでいる。これは菊池が先月の文章世界で指摘しているから、今更繰返す必要もないが、唯、自分にはこの異常性が、あの黒熱した鉄のような江口の性格から必然に湧いて来たような心もちがする。同じ病的な酷薄さに色づけられているような心もちがする。描写は殆《ほとんど》谷崎潤一郎
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