衛門尉《わたるさえもんのじょう》と云う名は、今度の事に就いて知ったのだが、男にしては柔《やさ》しすぎる、色の白い顔を見覚えたのは、いつの事だかわからない。それが袈裟《けさ》の夫だと云う事を知った時、己が一時嫉妬を感じたのは事実だった。しかしその嫉妬も今では己の心の上に何一つ痕跡《こんせき》を残さないで、綺麗に消え失せてしまっている。だから渡《わたる》は己にとって、恋の仇《かたき》とは云いながら、憎くもなければ、恨めしくもない。いや、むしろ、己はあの男に同情していると云っても、よいくらいだ。衣川《ころもがわ》の口から渡が袈裟を得るために、どれだけ心を労したかを聞いた時、己は現にあの男を可愛《かわゆ》く思った事さえある。渡は袈裟を妻にしたい一心で、わざわざ歌の稽古までしたと云う事ではないか。己はあの生真面目《きまじめ》な侍の作った恋歌《れんか》を想像すると、知らず識らず微笑が唇に浮んで来る。しかしそれは何も、渡を嘲《あざけ》る微笑ではない。己はそうまでして、女に媚《こ》びるあの男をいじらしく思うのだ。あるいは己の愛している女に、それほどまでに媚びようとするあの男の熱情が、愛人たる己にある種
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