の厭らしさが、絶えず己を虐《さいな》んでいた事は、元よりわざわざ云う必要もない。もし出来たなら、その時に、己は己の約束をその場で破ってしまいたかった。そうして、あの不貞な女を、辱しめと云う辱しめのどん底まで、つき落してしまいたかった。そうすれば己の良心は、たとえあの女を弄《もてあそ》んだにしても、まだそう云う義憤の後《うしろ》に、避難する事が出来たかも知れない。が、己にはどうしても、そうする余裕が作れなかった。まるで己の心もちを見透《みとお》しでもしたように、急に表情を変えたあの女が、じっと己の目を見つめた時、――己は正直に白状する。己が日と時刻とをきめて、渡を殺す約束を結ぶような羽目《はめ》に陥ったのは、完《まった》く万一己が承知しない場合に、袈裟が己に加えようとする復讐《ふくしゅう》の恐怖からだった。いや、今でも猶《なお》この恐怖は、執念深く己の心を捕えている。臆病だと哂《わら》う奴は、いくらでも哂うが好《い》い。それはあの時の袈裟を知らないもののする事だ。「己《おれ》が渡《わたる》を殺さないとすれば、よし袈裟《けさ》自身は手を下さないにしても、必ず、己はこの女に殺されるだろう。そのくらいなら己の方で渡を殺してしまってやる。」――涙がなくて泣いているあの女の目を見た時に、己は絶望的にこう思った。しかもこの己の恐怖は、己が誓言《せいごん》をした後《あと》で、袈裟が蒼白い顔に片靨《かたえくぼ》をよせながら、目を伏せて笑ったのを見た時に、裏書きをされたではないか。
ああ、己はその呪《のろ》わしい約束のために、汚《けが》れた上にも汚れた心の上へ、今また人殺しの罪を加えるのだ。もし今夜に差迫って、この約束を破ったなら――これも、やはり己には堪えられない。一つには誓言《せいごん》の手前もある。そうしてまた一つには、――己は復讐を恐れると云った。それも決して嘘ではない。しかしその上にまだ何かある。それは何だ? この己を、この臆病な己を追いやって罪もない男を殺させる、その大きな力は何だ? 己にはわからない。わからないが、事によると――いやそんな事はない。己はあの女を蔑《さげす》んでいる。恐れている。憎んでいる。しかしそれでも猶《なお》、それでも猶、己はあの女を愛しているせいかも知れない。」
盛遠《もりとお》は徘徊を続けながら、再び、口を開かない。月明《つきあかり》。どこかで今様《いまよう》を謡《うた》う声がする。
げに人間の心こそ、無明《むみょう》の闇も異《ことな》らね、
ただ煩悩《ぼんのう》の火と燃えて、消ゆるばかりぞ命なる。
下
夜、袈裟《けさ》が帳台《ちょうだい》の外で、燈台の光に背《そむ》きながら、袖を噛んで物思いに耽っている。
その独白
「あの人は来るのかしら、来ないのかしら。よもや来ない事はあるまいと思うけれど、もうかれこれ月が傾くのに、足音もしない所を見ると、急に気でも変ったではあるまいか。もしひょっとして来なかったら――ああ、私はまるで傀儡《くぐつ》の女のようにこの恥しい顔をあげて、また日の目を見なければならない。そんなあつかましい、邪《よこしま》な事がどうして私に出来るだろう。その時の私こそ、あの路ばたに捨ててある死体と少しも変りはない。辱《はずかし》められ、踏みにじられ、揚句《あげく》の果にその身の恥をのめのめと明るみに曝《さら》されて、それでもやはり唖《おし》のように黙っていなければならないのだから。私は万一そうなったら、たとい死んでも死にきれない。いやいや、あの人は必ず、来る。私はこの間別れ際に、あの人の目を覗《のぞ》きこんだ時から、そう思わずにはいられなかった。あの人は私を怖《こわ》がっている。私を憎み、私を蔑《さげす》みながら、それでも猶《なお》私を怖がっている。成程私が私自身を頼みにするのだったら、あの人が必ず、来るとは云われないだろう。が、私はあの人を頼みにしている。あの人の利己心を頼みにしている。いや、利己心が起させる卑しい恐怖を頼みにしている。だから私はこう云われるのだ。あの人はきっと忍んで来るのに違いない。……
しかし私自身を頼みにする事の出来なくなった私は、何と云うみじめな人間だろう。三年前の私は、私自身を、この私の美しさを、何よりもまた頼みにしていた。三年前と云うよりも、あるいはあの日までと云った方が、もっとほんとうに近いかも知れない。あの日、伯母様の家の一間で、あの人と会った時に、私はたった一目見たばかりで、あの人の心に映っている私の醜さを知ってしまった。あの人は何事もないような顔をして、いろいろ私を唆《そその》かすような、やさしい語《ことば》をかけてくれる。が、一度自分の醜さを知った女の心が、どうしてそんな語《ことば》に慰められよう。私はただ、
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