袈裟と盛遠
芥川龍之介

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)盛遠《もりとお》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)丁度|癩《らい》を病んだ

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(例)[#地から1字上げ](大正七年三月)
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        上

 夜、盛遠《もりとお》が築土《ついじ》の外で、月魄《つきしろ》を眺めながら、落葉《おちば》を踏んで物思いに耽っている。

     その独白

「もう月の出だな。いつもは月が出るのを待ちかねる己《おれ》も、今日ばかりは明くなるのがそら恐しい。今までの己が一夜の中《うち》に失われて、明日《あす》からは人殺になり果てるのだと思うと、こうしていても、体が震えて来る。この両の手が血で赤くなった時を想像して見るが好《い》い。その時の己《おれ》は、己自身にとって、どのくらい呪《のろ》わしいものに見えるだろう。それも己の憎む相手を殺すのだったら、己は何もこんなに心苦しい思いをしなくてもすんだのだが、己は今夜、己の憎んでいない男を殺さなければならない。
 己はあの男を以前から見知っている。渡左衛門尉《わたるさえもんのじょう》と云う名は、今度の事に就いて知ったのだが、男にしては柔《やさ》しすぎる、色の白い顔を見覚えたのは、いつの事だかわからない。それが袈裟《けさ》の夫だと云う事を知った時、己が一時嫉妬を感じたのは事実だった。しかしその嫉妬も今では己の心の上に何一つ痕跡《こんせき》を残さないで、綺麗に消え失せてしまっている。だから渡《わたる》は己にとって、恋の仇《かたき》とは云いながら、憎くもなければ、恨めしくもない。いや、むしろ、己はあの男に同情していると云っても、よいくらいだ。衣川《ころもがわ》の口から渡が袈裟を得るために、どれだけ心を労したかを聞いた時、己は現にあの男を可愛《かわゆ》く思った事さえある。渡は袈裟を妻にしたい一心で、わざわざ歌の稽古までしたと云う事ではないか。己はあの生真面目《きまじめ》な侍の作った恋歌《れんか》を想像すると、知らず識らず微笑が唇に浮んで来る。しかしそれは何も、渡を嘲《あざけ》る微笑ではない。己はそうまでして、女に媚《こ》びるあの男をいじらしく思うのだ。あるいは己の愛している女に、それほどまでに媚びようとするあの男の熱情が、愛人たる己にある種
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