想の好い顔をしたまま、身動きもしない玉蘭《ぎょくらん》の前へ褐色の一片を突きつけていた。
僕はちょっとそのビスケットの※[#「均のつくり」、第3水準1−14−75]《におい》だけ嗅《か》いで見たい誘惑を感じた。
「おい、僕にもそれを見せてくれ。」
「うん、こっちにまだ半分ある。」
譚《たん》は殆《ほとん》ど左利きのように残りの一片を投げてよこした。僕は小皿や箸《はし》の間からその一片を拾い上げた。けれども折角拾い上げると、急に嗅いで見る気もなくなったから、黙ってテエブルの下へ落してしまった。
すると玉蘭は譚の顔を見つめ、二こと三こと問答をした。それからビスケットを受け取った後《のち》、彼女を見守った一座を相手に早口に何かしゃべり出した。
「どうだ、通訳しようか?」
譚はテエブルに頬杖《ほおづえ》をつき、そろそろ呂律《ろれつ》の怪しい舌にこう僕へ話しかけた。
「うん、通訳してくれ。」
「好いか? 逐語訳だよ。わたしは喜んでわたしの愛する………黄老爺《こうろうや》の血を味わいます。………」
僕は体の震えるのを感じた。それは僕の膝《ひざ》を抑えた含芳《がんほう》の手の震えるのだった。
「あなたがたもどうかわたしのように、………あなたがたの愛する人を、………」
玉蘭は譚の言葉の中《うち》にいつかもう美しい歯にビスケットの一片を噛《か》みはじめていた。………
* * * * *
僕は三泊の予定通り、五月十九日の午後五時頃、前と同じ※[#「さんずい+元」、第3水準1−86−54]江丸《げんこうまる》の甲板の欄干《らんかん》によりかかっていた。白壁や瓦屋根《かわらやね》を積み上げた長沙《ちょうさ》は何か僕には無気味だった。それは次第に迫って来る暮色の影響に違いなかった。僕は葉巻を銜《くわ》えたまま、何度もあの愛嬌《あいきょう》の好い譚永年の顔を思い出した。が、譚は何の為か、僕の見送りには立たなかった。
※[#「さんずい+元」、第3水準1−86−54]江丸の長沙を発したのは確か七時か七時半だった。僕は食事をすませた後、薄暗い船室の電灯の下《もと》に僕の滞在費を計算し出した。僕の目の前には扇が一本、二尺に足りない机の外へ桃色の流蘇《ふさ》を垂らしていた。この扇は僕のここへ来る前に誰《たれ》かの置き忘れて行ったものだった。僕は鉛筆を動かしながら、時々又譚の顔を思い出した。彼の玉蘭を苦しめた理由ははっきりとは僕にもわからなかった。しかし僕の滞在費は――僕は未《いま》だに覚えている、日本の金に換算すると、丁度十二円五十銭だった。
底本:「昭和文学全集 第1巻」小学館
1987(昭和62)年5月1日初版第1刷発行
親本:岩波書店刊「芥川龍之介全集」
1977(昭和52)年〜1978(昭和53)年
入力:j.utiyama
校正:柳沢成雄
1998年10月20日公開
2007年2月11日修正
青空文庫作成ファイル:
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