ったり下ったりしていた。それは窓や戸口に下げた、赤い更紗《さらさ》の布《きれ》と一しょに珍しい見ものに違いなかった。しかし少くとも僕の目には気味の悪い見ものにも違いなかった。
この部屋に僕等を迎えたのは小肥《こぶと》りに肥った鴇婦《ポオプウ》だった。譚は彼女を見るが早いか、雄弁に何か話し出した。彼女も愛嬌《あいきょう》そのもののように滑かに彼と応対していた。が、彼等の話している言葉は一言も僕にはわからなかった。(これは勿論僕自身の支那語に通じていない為である。しかし元来|長沙《ちょうさ》の言葉は北京《ペキン》官話に通じている耳にも決して容易にはわからないらしい。)
譚は鴇婦と話した後《のち》、大きい紅木《こうぼく》のテエブルヘ僕と差向いに腰を下ろした。それから彼女の運んで来た活版刷の局票の上へ芸者の名前を書きはじめた。張湘娥《ちょうしょうが》、王巧雲《おうこううん》、含芳《がんほう》、酔玉楼《すいぎょくろう》、愛媛々《あいえんえん》、――それ等はいずれも旅行者の僕には支那小説の女主人公にふさわしい名前ばかりだった。
「玉蘭も呼ぼうか?」
僕は返事をしたいにもしろ、生憎《あいにく》鴇婦の火を擦ってくれる巻煙草の一本を吸いつけていた。が、譚はテエブル越しにちょっと僕の顔を見たぎり、無頓着に筆を揮《ふる》ったらしかった。
そこへ濶達《かつたつ》にはいって来たのは細い金縁の眼鏡をかけた、血色の好い円顔の芸者だった。彼女は白い夏衣裳《なついしょう》にダイアモンドを幾つも輝かせていた。のみならずテニスか水泳かの選手らしい体格も具《そな》えていた。僕はこう言う彼女の姿に美醜や好悪を感ずるよりも妙に痛切な矛盾を感じた。彼女は実際この部屋の空気と、――殊に鳥籠《とりかご》の中の栗鼠《りす》とは吊《つ》り合《あ》わない存在に違いなかった。
彼女はちょっと目礼したぎり、躍《おど》るように譚《たん》の側へ歩み寄った。しかも彼の隣に坐《すわ》ると、片手を彼の膝《ひざ》の上に置き、宛囀《えんてん》と何かしゃべり出した。譚も、――譚は勿論《もちろん》得意そうに是了《シイラ》是了《シイラ》などと答えていた。
「これはこの家《うち》にいる芸者《げいしゃ》でね、林大嬌《りんたいきょう》と言う人だよ。」
僕は譚にこう言われた時、おのずから彼の長沙《ちょうさ》にも少ない金持の子だったのを思い出
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