た。悲しみは元より説明を費すまでもない。が、その安らかな心もちは、恰《あたか》も明方の寒い光が次第に暗《やみ》の中にひろがるやうな、不思議に朗《ほがらか》な心もちである。しかもそれは刻々に、あらゆる雑念を溺らし去つて、果ては涙そのものさへも、毫《がう》も心を刺す痛みのない、清らかな悲しみに化してしまふ。彼は師匠の魂が虚夢の生死を超越して、常住涅槃《じやうぢゆうねはん》の宝土に還つたのを喜んででもゐるのであらうか。いや、これは彼自身にも、肯定の出来ない理由であつた。それならば――ああ、誰か徒《いたづら》に※[#「足へん+諮のつくり」、第4水準2−89−41]※[#「足へん+阻のつくり」、第4水準2−89−28]《しそ》逡巡して、己を欺くの愚を敢《あへ》てしよう。丈艸のこの安らかな心もちは、久しく芭蕉の人格的圧力の桎梏《しつこく》に、空しく屈してゐた彼の自由な精神が、その本来の力を以て、漸《やうや》く手足を伸ばさうとする、解放の喜びだつたのである。彼はこの恍惚《くわうこつ》たる悲しい喜びの中に、菩提樹《ぼだいじゆ》の念珠をつまぐりながら、周囲にすすりなく門弟たちも、眼底を払つて去つた如く、
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