孤独地獄
芥川龍之介

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)所謂《いはゆる》大通《だいつう》の一人で

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)同|冬映《とうえい》

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   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「勹<夕」、第3水準1−14−76]々《そうそう》
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 この話を自分は母から聞いた。母はそれを自分の大叔父から聞いたと云つてゐる。話の真偽は知らない。唯大叔父自身の性行から推して、かう云ふ事も随分ありさうだと思ふだけである。
 大叔父は所謂《いはゆる》大通《だいつう》の一人で、幕末の芸人や文人の間に知己の数が多かつた。河竹黙阿弥《かはたけもくあみ》、柳下亭種員《りうかていたねかず》、善哉庵永機《ぜんざいあんえいき》、同|冬映《とうえい》、九代目《くだいめ》団十郎《だんじふらう》、宇治紫文《うぢしぶん》、都千中《みやこせんちゆう》、乾坤坊良斎《けんこんばうりやうさい》などの人々である。中でも黙阿弥は、「江戸桜清水清玄《えどざくらきよみづせいげん》」で紀国屋《きのくにや》文左衛門を書くのに、この大叔父を粉本《ふんぽん》にした。物故《ぶつこ》してから、もう彼是《かれこれ》五十年になるが、生前一時は今紀文《いまきぶん》と綽号《あだな》された事があるから、今でも名だけは聞いてゐる人があるかも知れない。――姓は細木《さいき》、名は藤次郎、俳名《はいみやう》は香以《かうい》、俗称は山城河岸《やましろがし》の津藤《つとう》と云つた男である。
 その津藤が或時吉原の玉屋で、一人の僧侶と近づきになつた。本郷|界隈《かいわい》の或禅寺の住職で、名は禅超《ぜんてう》と云つたさうである。それがやはり嫖客《へうかく》となつて、玉屋の錦木《にしきぎ》と云ふ華魁《おいらん》に馴染《なじ》んでゐた。勿論、肉食妻帯《にくじきさいたい》が僧侶に禁ぜられてゐた時分の事であるから、表向きはどこまでも出家ではない。黄八丈《きはちぢやう》の着物に黒羽二重《くろはぶたへ》の紋付と云ふ拵《こしら》へで人には医者だと号してゐる。――それと偶然近づきになつた。
 偶然と云ふのは燈籠《とうろう》時分の或夜、玉屋の二階で、津藤が厠《かはや》へ行つた帰りしなに何気なく廊下を通る
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