家康は初めて微笑《びしょう》した。人生は彼には東海道の地図のように明かだった。家康は古千屋の狂乱の中にもいつか人生の彼に教えた、何ごとにも表裏《ひょうり》のあるという事実を感じない訣《わけ》には行《ゆ》かなかった。この推測は今度も七十歳を越した彼の経験に合《がっ》していた。……
「さもあろう。」
「あの女はいかがいたしましょう?」
「善《よ》いわ、やはり召使っておけ。」
直孝はやや苛立《いらだ》たしげだった。
「けれども上《かみ》を欺《あざむ》きました罪は……」
家康はしばらくだまっていた。が、彼の心の目は人生の底にある闇黒《あんこく》に――そのまた闇黒の中にいるいろいろの怪物に向っていた。
「わたくしの一存《いちぞん》にとり計《はか》らいましても、よろしいものでございましょうか?」
「うむ、上を欺いた……」
それは実際直孝には疑う余地などのないことだった。しかし家康はいつの間《ま》にか人一倍大きい目をしたまま、何か敵勢にでも向い合ったようにこう堂々と返事をした。――
「いや、おれは欺《あざむ》かれはせぬ。」
[#地から1字上げ](昭和二年五月七日)
底本:「芥川龍之介全集
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