玄鶴山房
芥川龍之介

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)尤《もっと》も

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)時々|眉《まゆ》をひそめ

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(例)※[#「言+墟のつくり」、第4水準2−88−74]《うそ》
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   一

 ………それは小ぢんまりと出来上った、奥床しい門構えの家だった。尤《もっと》もこの界隈《かいわい》にはこう云う家も珍しくはなかった。が、「玄鶴山房《げんかくさんぼう》」の額や塀越しに見える庭木などはどの家よりも数奇《すき》を凝らしていた。
 この家の主人、堀越玄鶴は画家としても多少は知られていた。しかし資産を作ったのはゴム印の特許を受けた為だった。或はゴム印の特許を受けてから地所の売買をした為だった。現に彼が持っていた郊外の或地面などは生姜《しょうが》さえ碌《ろく》に出来ないらしかった。けれども今はもう赤瓦《あかがわら》の家や青瓦の家の立ち並んだ所謂《いわゆる》「文化村」に変っていた。………
 しかし「玄鶴山房」は兎《と》に角《かく》小ぢんまりと出来上った、奥床しい門構えの家だった。殊に近頃は見越しの松に雪よけの縄がかかったり、玄関の前に敷いた枯れ松葉に藪柑子《やぶこうじ》の実が赤らんだり、一層風流に見えるのだった。のみならずこの家のある横町も殆《ほとん》ど人通りと云うものはなかった。豆腐屋さえそこを通る時には荷を大通りへおろしたなり、喇叭《らっぱ》を吹いて通るだけだった。
「玄鶴山房――玄鶴と云うのは何だろう?」
 たまたまこの家の前を通りかかった、髪の毛の長い画学生は細長い絵の具箱を小脇《こわき》にしたまま、同じ金鈕《きんボタン》の制服を着たもう一人の画学生にこう言ったりした。
「何だかな、まさか厳格と云う洒落《しゃれ》でもあるまい。」
 彼等は二人とも笑いながら、気軽にこの家の前を通って行った。そのあとには唯《ただ》凍《い》て切った道に彼等のどちらかが捨てて行った「ゴルデン・バット」の吸い殻が一本、かすかに青い一すじの煙を細ぼそと立てているばかりだった。………

   二

 重吉は玄鶴の婿になる前から或銀行へ勤めていた。従って家に帰って来るのはいつも電灯のともる頃だった。彼はこの数日以来、門の内へはいるが早いか、忽《たちま》ち妙な臭気を感じた。それは老人には珍しい肺結核の床に就《つ》いている玄鶴の息の匂《におい》だった。が、勿論《もちろん》家の外にはそんな匂の出る筈《はず》はなかった。冬の外套《がいとう》の腋《わき》の下に折鞄《おりかばん》を抱えた重吉は玄関前の踏み石を歩きながら、こういう彼の神経を怪まない訣《わけ》には行かなかった。
 玄鶴は「離れ」に床をとり、横になっていない時には夜着の山によりかかっていた。重吉は外套や帽子をとると、必ずこの「離れ」へ顔を出し、「唯今《ただいま》」とか「きょうは如何ですか」とか言葉をかけるのを常としていた。しかし「離れ」の閾《しきい》の内へは滅多に足も入れたことはなかった。それは舅《しゅうと》の肺結核に感染するのを怖《おそ》れる為でもあり、又一つには息の匂を不快に思う為でもあった。玄鶴は彼の顔を見る度にいつも唯「ああ」とか「お帰り」とか答えた。その声は又力の無い、声よりも息に近いものだった。重吉は舅にこう言われると、時々彼の不人情に後ろめたい思いもしない訣ではなかった。けれども「離れ」へはいることはどうも彼には無気味だった。
 それから重吉は茶の間の隣りにやはり床に就いている姑《しゅうとめ》のお鳥を見舞うのだった。お鳥は玄鶴の寝こまない前から、――七八年前から腰抜けになり、便所へも通えない体になっていた。玄鶴が彼女を貰ったのは彼女が或大藩の家老の娘と云う外にも器量望みからだと云うことだった。彼女はそれだけに年をとっても、どこか目などは美しかった。しかしこれも床の上に坐《すわ》り、丹念に白足袋《しろたび》などを繕っているのは余りミイラと変らなかった。重吉はやはり彼女にも「お母さん、きょうはどうですか?」と云う、手短な一語を残したまま、六畳の茶の間へはいるのだった。
 妻のお鈴は茶の間にいなければ、信州生まれの女中のお松と狭い台所に働いていた。小綺麗《こぎれい》に片づいた茶の間は勿論、文化竈《ぶんかかまど》を据えた台所さえ舅や姑の居間よりも遥《はる》かに重吉には親しかった。彼は一時は知事などにもなった或政治家の次男だった。が、豪傑肌の父親よりも昔の女流歌人だった母親に近い秀才だった。それは又彼の人懐《ひとなつ》こい目や細っそりした顋《あご》にも明らかだった。重吉はこの茶の間へはいると、洋服を和服に着換えた上、楽々と長火鉢の前に坐り、安い葉巻を吹かしたり、今年やっと小学校にはいった一人息子の武夫をからかったりした。
 重吉はいつもお鈴や武夫とチャブ台を囲んで食事をした。彼等の食事は賑《にぎや》かだった。が、近頃は「賑か」と云っても、どこか又窮屈にも違いなかった。それは唯玄鶴につき添う甲野と云う看護婦の来ている為だった。尤も武夫は「甲野さん」がいても、ふざけるのに少しも変らなかった。いや、或は「甲野さん」がいる為に余計ふざける位だった。お鈴は時々|眉《まゆ》をひそめ、こう云う武夫を睨《にら》んだりした。しかし武夫はきょとんとしたまま、わざと大仰に茶碗《ちゃわん》の飯を掻《か》きこんで見せたりするだけだった。重吉は小説などを読んでいるだけに武夫のはしゃぐのにも「男」を感じ、不快になることもないではなかった。が、大抵は微笑したぎり、黙って飯を食っているのだった。
「玄鶴山房」の夜は静かだった。朝早く家を出る武夫は勿論、重吉夫婦も大抵は十時には床に就くことにしていた。その後でもまだ起きているのは九時前後から夜伽《よとぎ》をする看護婦の甲野ばかりだった。甲野は玄鶴の枕《まくら》もとに赤あかと火の起った火鉢を抱え、居睡《いねむ》りもせずに坐っていた。玄鶴は、――玄鶴も時々は目を醒《さ》ましていた。が、湯たんぽが冷えたとか、湿布が乾いたとか云う以外に殆ど口を利いたことはなかった。こう云う「離れ」にも聞えて来るものは植え込みの竹の戦《そよ》ぎだけだった。甲野は薄ら寒い静かさの中にじっと玄鶴を見守ったまま、いろいろのことを考えていた。この一家の人々の心もちや彼女自身の行く末などを。………

   三

 或雪の晴れ上った午後、二十四五の女が一人、か細い男の子の手を引いたまま、引き窓越しに青空の見える堀越家の台所へ顔を出した。重吉は勿論家にいなかった。丁度ミシンをかけていたお鈴は多少予期はしていたものの、ちょっと当惑に近いものを感じた。しかし兎に角この客を迎えに長火鉢の前を立って行った。客は台所へ上った後、彼女自身の履き物や男の子の靴を揃《そろ》え直した。(男の子は白いスウェエタアを着ていた。)彼女がひけ目を感じていることはこう云う所作だけにも明らかだった。が、それも無理はなかった。彼女はこの五六年以来、東京の或近在に玄鶴が公然と囲って置いた女中上りのお芳だった。
 お鈴はお芳の顔を見た時、存外彼女が老《ふ》けたことを感じた。しかもそれは顔ばかりではなかった。お芳は四五年以前には円まると肥《ふと》った手をしていた。が、年は彼女の手さえ静脈の見えるほど細らせていた。それから彼女が身につけたものも、――お鈴は彼女の安ものの指環《ゆびわ》に何か世帯じみた寂しさを感じた。
「これは兄が檀那様《だんなさま》に差し上げてくれと申しましたから。」
 お芳は愈《いよいよ》気後れのしたように古い新聞紙の包みを一つ、茶の間へ膝《ひざ》を入れる前にそっと台所の隅へ出した。折から洗いものをしていたお松はせっせと手を動かしながら、水々しい銀杏返《いちょうがえ》しに結ったお芳を時々尻目に窺《うかが》ったりしていた。が、この新聞紙の包みを見ると、更に悪意のある表情をした。それは又実際|文化竈《ぶんかかまど》や華奢《きゃしゃ》な皿小鉢と調和しない悪臭を放っているのに違いなかった。お芳はお松を見なかったものの、少くともお鈴の顔色に妙なけはいを感じたと見え、「これは、あの、大蒜《にんにく》でございます」と説明した。それから指を噛《か》んでいた子供に「さあ、坊ちゃん、お時宜《じぎ》なさい」と声をかけた。男の子は勿論《もちろん》玄鶴がお芳に生ませた文太郎だった。その子供をお芳が「坊ちゃん」と呼ぶのはお鈴には如何にも気の毒だった。けれども彼女の常識はすぐにそれもこう云う女には仕かたがないことと思い返した。お鈴はさりげない顔をしたまま、茶の間の隅に坐《すわ》った親子に有り合せの菓子や茶などをすすめ、玄鶴の容態を話したり、文太郎の機嫌をとったりし出した。………
 玄鶴はお芳を囲い出した後、省線電車の乗り換えも苦にせず、一週間に一二度ずつは必ず妾宅《しょうたく》へ通って行った。お鈴はこう云う父の気もちに始めのうちは嫌悪を感じていた。「ちっとはお母さんの手前も考えれば善いのに、」――そんなことも度たび考えたりした。尤《もっと》もお鳥は何ごとも詮《あきら》め切っているらしかった。しかしお鈴はそれだけ一層母を気の毒に思い、父が妾宅へ出かけた後でも母には「きょうは詩の会ですって」などと白々しい※[#「言+墟のつくり」、第4水準2−88−74]《うそ》をついたりしていた。その※[#「言+墟のつくり」、第4水準2−88−74]が役に立たないことは彼女自身も知らないのではなかった。が、時々母の顔に冷笑に近い表情を見ると、※[#「言+墟のつくり」、第4水準2−88−74]をついたことを後悔する、――と云うよりも寧《むし》ろ彼女の心も汲《く》み分けてくれない腰ぬけの母に何か情無さを感じ勝ちだった。
 お鈴は父を送り出した後、一家のことを考える為にミシンの手をやめるのも度たびだった。玄鶴はお芳を囲い出さない前にも彼女には「立派なお父さん」ではなかった。しかし勿論そんなことは気の優しい彼女にはどちらでも善かった。唯《ただ》彼女に気がかりだったのは父が書画骨董《しょがこっとう》までもずんずん妾宅へ運ぶことだった。お鈴はお芳が女中だった時から、彼女を悪人と思ったことはなかった。いや、寧ろ人並みよりも内気な女と思っていた。が、東京の或る場末に肴屋《さかなや》をしているお芳の兄は何をたくらんでいるかわからなかった。実際又彼は彼女の目には妙に悪賢い男らしかった。お鈴は時々重吉をつかまえ、彼女の心配を打ち明けたりした。けれども彼は取り合わなかった。「僕からお父さんに言う訣《わけ》には行かない。」――お鈴は彼にこう言われて見ると、黙ってしまうより外はなかった。
「まさかお父さんも羅両峯《らりょうほう》の画がお芳にわかるとも思っていないんでしょうが。」
 重吉も時たまお鳥にはそれとなしにこんなことも話したりしていた。が、お鳥は重吉を見上げ、いつも唯苦笑してこう言うのだった。
「あれがお父さんの性分なのさ。何しろお父さんはあたしにさえ『この硯《すずり》はどうだ?』などと言う人なんだからね。」
 しかしそんなことも今になって見れば、誰にも莫迦莫迦《ばかばか》しい心配だった。玄鶴は今年の冬以来、どっと病の重った為に妾宅通いも出来なくなると、重吉が持ち出した手切れ話に(尤もその話の条件などは事実上彼よりもお鳥やお鈴が拵《こしら》えたと言うのに近いものだった。)存外素直に承諾した。それは又お鈴が恐れていたお芳の兄も同じことだった。お芳は千円の手切れ金を貰い、上総《かずさ》の或海岸にある両親の家へ帰った上、月々文太郎の養育料として若干の金を送って貰う、――彼はこういう条件に少しも異存を唱えなかった。のみならず妾宅に置いてあった玄鶴の秘蔵の煎茶《せんちゃ》道具なども催促されぬうちに運んで来た。お鈴は前に疑っていただけに一層彼に好意を感じた。
「就《つ》きましては妹のやつが若《も》しお手でも足りま
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