鶴の一生はこう云う彼には如何にも浅ましい一生だった。成程ゴム印の特許を受けた当座は比較的彼の一生でも明るい時代には違いなかった。しかしそこにも儕輩《さいはい》の嫉妬や彼の利益を失うまいとする彼自身の焦燥の念は絶えず彼を苦しめていた。ましてお芳を囲い出した後は、――彼は家庭のいざこざ[#「いざこざ」に傍点]の外にも彼等の知らない金の工面にいつも重荷を背負いつづけだった。しかも更に浅ましいことには年の若いお芳に惹《ひ》かれていたものの、少くともこの一二年は何度内心にお芳親子を死んでしまえと思ったか知れなかった。
「浅ましい?――しかしそれも考えて見れば、格別わしだけに限ったことではない。」
彼は夜などはこう考え、彼の親戚《しんせき》や知人のことを一々細かに思い出したりした。彼の婿の父親は唯《ただ》「憲政を擁護する為に」彼よりも腕の利かない敵を何人も社会的に殺していた。それから彼に一番親しい或年輩の骨董屋《こっとうや》は先妻の娘に通じていた。それから或弁護士は供託金を費消していた。それから或|篆刻家《てんこくか》は、――しかし彼等の犯した罪は不思議にも彼の苦しみには何の変化も与えなかった。のみならず逆に生そのものにも暗い影を拡《ひろ》げるばかりだった。
「何、この苦しみも長いことはない。お目出度くなってしまいさえすれば………」
これは玄鶴にも残っていたたった一つの慰めだった。彼は心身に食いこんで来るいろいろの苦しみを紛らす為に楽しい記憶を思い起そうとした。けれども彼の一生は前にも言ったように浅ましかった。若《も》しそこに少しでも明るい一面があるとすれば、それは唯何も知らない幼年時代の記憶だけだった。彼は度たび夢うつつの間に彼の両親の住んでいた信州の或山峡の村を、――殊に石を置いた板葺《いたぶ》き屋根や蚕臭《かいこくさ》い桑ボヤを思い出した。が、その記憶もつづかなかった。彼は時々唸り声の間に観音経を唱えて見たり、昔のはやり歌をうたって見たりした。しかも「妙音観世音《みょうおんかんぜおん》、梵音海潮音《ぼんおんかいちょうおん》、勝彼世間音《しょうひせけんおん》」を唱えた後、「かっぽれ、かっぽれ」をうたうことは滑稽《こっけい》にも彼には勿体《もったい》ない気がした。
「寝るが極楽。寝るが極楽………」
玄鶴は何も彼も忘れる為に唯ぐっすり眠りたかった。実際又甲野は彼の為に催眠薬を与える外にもヘロインなどを注射していた。けれども彼には眠りさえいつも安らかには限らなかった。彼は時々夢の中にお芳や文太郎に出合ったりした。それは彼には、――夢の中の彼には明るい心もちのするものだった。(彼は或夜の夢の中にはまだ新しい花札の「桜の二十」と話していた。しかもその又「桜の二十」は四五年前のお芳の顔をしていた。)しかしそれだけに目の醒《さ》めた後は一層彼を見じめにした。玄鶴はいつか眠ることにも恐怖に近い不安を感ずるようになった。
大晦日《おおみそか》もそろそろ近づいた或午後、玄鶴は仰向《あおむ》けに横たわったなり、枕《まくら》もとの甲野へ声をかけた。
「甲野さん、わしはな、久しく褌《ふんどし》をしめたことがないから、晒《さら》し木綿《もめん》を六尺買わせて下さい。」
晒し木綿を手に入れることはわざわざ近所の呉服屋へお松を買いにやるまでもなかった。
「しめるのはわしが自分でしめます。ここへ畳んで置いて行って下さい。」
玄鶴はこの褌を便りに、――この褌に縊《くび》れ死ぬことを便りにやっと短い半日を暮した。しかし床の上に起き直ることさえ人手を借りなければならぬ彼には容易にその機会も得られなかった。のみならず死はいざとなって見ると、玄鶴にもやはり恐しかった。彼は薄暗い電灯の光に黄檗《おうばく》の一行ものを眺めたまま、未だ生を貪《むさぼ》らずにはいられぬ彼自身を嘲《あざけ》ったりした。
「甲野さん、ちょっと起して下さい。」
それはもう夜の十時頃だった。
「わしはな、これからひと眠りします。あなたも御遠慮なくお休みなすって下さい。」
甲野は妙に玄鶴を見つめ、こう素っ気ない返事をした。
「いえ、わたくしは起きております。これがわたくしの勤めでございますから。」
玄鶴は彼の計画も甲野の為に看破《みやぶ》られたのを感じた。が、ちょっと頷《うなず》いたぎり、何も言わずに狸寝入《たぬきねい》りをした。甲野は彼の枕もとに婦人雑誌の新年号をひろげ、何か読み耽《ふ》けっているらしかった。玄鶴はやはり蒲団《ふとん》の側の褌のことを考えながら、薄目《うすめ》に甲野を見守っていた。すると――急に可笑《おか》しさを感じた。
「甲野さん。」
甲野も玄鶴の顔を見た時はさすがにぎょっとしたらしかった。玄鶴は夜着によりかかったまま、いつかとめどなしに笑っていた。
「なんでございます?」
「いや、何でもない。何にも可笑しいことはありません。――」
玄鶴はまだ笑いながら、細い右手を振って見せたりした。
「今度は………なぜかこう可笑しゅうなってな。………今度はどうか横にして下さい。」
一時間ばかりたった後、玄鶴はいつか眠っていた。その晩は夢も恐しかった。彼は樹木の茂った中に立ち、腰の高い障子の隙《すき》から茶室めいた部屋を覗《のぞ》いていた。そこには又まる裸の子供が一人、こちらへ顔を向けて横になっていた。それは子供とは云うものの、老人のように皺《しわ》くちゃだった。玄鶴は声を挙げようとし、寝汗だらけになって目を醒ました。…………
「離れ」には誰も来ていなかった。のみならずまだ薄暗かった。まだ?――しかし玄鶴は置き時計を見、彼是《かれこれ》正午に近いことを知った。彼の心は一瞬間、ほっとしただけに明るかった。けれども又いつものように忽《たちま》ち陰欝《いんうつ》になって行った。彼は仰向けになったまま、彼自身の呼吸を数えていた。それは丁度何ものかに「今だぞ」とせかれている気もちだった。玄鶴はそっと褌を引き寄せ、彼の頭に巻きつけると、両手にぐっと引っぱるようにした。
そこへ丁度顔を出したのはまるまると着膨《きぶく》れた武夫だった。
「やあ、お爺さんがあんなことをしていらあ。」
武夫はこう囃《はや》しながら、一散に茶の間へ走って行った。
六
一週間ばかりたった後、玄鶴は家族たちに囲まれたまま、肺結核の為に絶命した。彼の告別式は盛大(!)だった。(唯、腰ぬけのお鳥だけはその式にも出る訣に行かなかった。)彼の家に集まった人々は重吉夫婦に悔みを述べた上、白い綸子《りんず》に蔽《おお》われた彼の柩《ひつぎ》の前に焼香した。が、門を出る時には大抵彼のことを忘れていた。尤《もっと》も彼の故|朋輩《ほうばい》だけは例外だったのに違いなかった。「あの爺さんも本望だったろう。若い妾《めかけ》も持っていれば、小金もためていたんだから。」――彼等は誰も同じようにこんなことばかり話し合っていた。
彼の柩《ひつぎ》をのせた葬用馬車は一|輛《りょう》の馬車を従えたまま、日の光も落ちない師走《しわす》の町を或火葬場へ走って行った。薄汚い後の馬車に乗っているのは重吉や彼の従弟《いとこ》だった。彼の従弟の大学生は馬車の動揺を気にしながら、重吉と余り話もせずに小型の本に読み耽《ふけ》っていた。それは Liebknecht の追憶録の英訳本だった。が、重吉は通夜疲れの為にうとうと居睡《いねむ》りをしていなければ、窓の外の新開町を眺め、「この辺もすっかり変ったな」などと気のない独り語を洩《も》らしていた。
二輛の馬車は霜どけの道をやっと火葬場へ辿《たど》り着いた。しかし予《あらかじ》め電話をかけて打ち合せて置いたのにも関らず、一等の竈は満員になり、二等だけ残っていると云うことだった。それは彼等にはどちらでも善かった。が、重吉は舅《しゅうと》よりも寧《むし》ろお鈴の思惑を考え、半月形の窓越しに熱心に事務員と交渉した。
「実は手遅れになった病人だしするから、せめて火葬にする時だけは一等にしたいと思うんですがね。」――そんな※[#「言+墟のつくり」、第4水準2−88−74]《うそ》もついて見たりした。それは彼の予期したよりも効果の多い※[#「言+墟のつくり」、第4水準2−88−74]らしかった。
「ではこうしましょう。一等はもう満員ですから、特別に一等の料金で特等で焼いて上げることにしましょう。」
重吉は幾分か間の悪さを感じ、何度も事務員に礼を言った。事務員は真鍮《しんちゅう》の眼鏡をかけた好人物らしい老人だった。
「いえ、何、お礼には及びません。」
彼等は竈に封印した後、薄汚い馬車に乗って火葬場の門を出ようとした。すると意外にもお芳が一人、煉瓦塀《れんがべい》の前に佇《たたず》んだまま、彼等の馬車に目礼していた。重吉はちょっと狼狽《ろうばい》し、彼の帽を上げようとした。しかし彼等を乗せた馬車はその時にはもう傾きながら、ポプラアの枯れた道を走っていた。
「あれですね?」
「うん、………俺たちの来た時もあすこにいたかしら。」
「さあ、乞食《こじき》ばかりいたように思いますがね。……あの女はこの先どうするでしょう?」
重吉は一本の敷島《しきしま》に火をつけ、出来るだけ冷淡に返事をした。
「さあ、どう云うことになるか。……」
彼の従弟は黙っていた。が、彼の想像は上総《かずさ》の或海岸の漁師町を描いていた。それからその漁師町に住まなければならぬお芳親子も。――彼は急に険しい顔をし、いつかさしはじめた日の光の中にもう一度リイプクネヒトを読みはじめた。
底本:「昭和文学全集 第一巻」小学館
1987(昭和62)年5月1日初版第1刷発行
親本:岩波書店刊「芥川龍之介全集」
1977(昭和52)年〜1978(昭和53)年
入力:j.utiyama
校正:かとうかおり
1998年10月14日公開
2004年2月29日修正
青空文庫作成ファイル:
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