めたお鈴を一生懸命に押し戻しながら、いつももう一人の人間の、――じっとこの騒ぎを聞いている玄鶴の心もちを想像し、内心には冷笑を浮かべていた。が、勿論そんな素ぶりは決して顔色にも見せたことはなかった。
けれども一家を不安にしたものは必しも子供の喧嘩ばかりではなかった。お芳は又いつの間にか何ごともあきらめ切ったらしいお鳥の嫉妬《しっと》を煽《あお》っていた。尤《もっと》もお鳥はお芳自身には一度も怨《うら》みなどを言ったことはなかった。(これは又五六年前、お芳がまだ女中部屋に寝起きしていた頃も同じだった。)が、全然関係のない重吉に何かと当り勝ちだった。重吉は勿論とり合わなかった。お鈴はそれを気の毒に思い、時々母の代りに詫《わ》びたりした。しかし彼は苦笑したぎり、「お前までヒステリイになっては困る」と話を反らせるのを常としていた。
甲野はお鳥の嫉妬にもやはり興味を感じていた。お鳥の嫉妬それ自身は勿論、彼女が重吉に当る気もちも甲野にははっきりとわかっていた。のみならず彼女はいつの間にか彼女自身も重吉夫婦に嫉妬に近いものを感じていた。お鈴は彼女には「お嬢様」だった。重吉も――重吉は兎《と》に角《かく》世間並みに出来上った男に違いなかった。が、彼女の軽蔑《けいべつ》する一匹の雄《おす》にも違いなかった。こう云う彼等の幸福は彼女には殆《ほとん》ど不正だった。彼女はこの不正を矯《た》める為に(!)重吉に馴《な》れ馴《な》れしい素振りを示した。それは或は重吉には何ともないものかも知れなかった。けれどもお鳥を苛立《いらだ》たせるには絶好の機会を与えるものだった。お鳥は膝頭《ひざがしら》も露《あら》わにしたまま、「重吉、お前はあたしの娘では――腰ぬけの娘では不足なのかい?」と毒々しい口をきいたりした。
しかしお鈴だけはその為に重吉を疑ったりはしないらしかった。いや、実際甲野にも気の毒に思っているらしかった。甲野はそこに不満を持ったばかりか、今更のように人の善いお鈴を軽蔑せずにはいられなかった。が、いつか重吉が彼女を避け出したのは愉快だった。のみならず彼女を避けているうちに反《かえっ》て彼女に男らしい好奇心を持ち出したのは愉快だった。彼は前には甲野がいる時でも、台所の側の風呂へはいる為に裸になることをかまわなかった。けれども近頃ではそんな姿を一度も甲野に見せないようになった。それは彼が羽根を抜いた雄鶏《おんどり》に近い彼の体を羞《は》じている為に違いなかった。甲野はこう云う彼を見ながら、(彼の顔も亦|雀斑《そばかす》だらけだった。)一体彼はお鈴以外の誰に惚《ほ》れられるつもりだろうなどと私《ひそ》かに彼を嘲《あざけ》ったりしていた。
或霜曇りに曇った朝、甲野は彼女の部屋になった玄関の三畳に鏡を据え、いつも彼女が結びつけたオオル・バックに髪を結びかけていた。それは丁度|愈《いよいよ》お芳が田舎へ帰ろうと言う前日だった。お芳がこの家を去ることは重吉夫婦には嬉《うれ》しいらしかった。が、反ってお鳥には一層苛立たしさを与えるらしかった。甲野は髪を結びながら、甲高《かんだか》いお鳥の声を聞き、いつか彼女の友だちが話した或女のことを思い出した。彼女はパリに住んでいるうちにだんだん烈《はげ》しい懐郷病に落ちこみ、夫の友だちが帰朝するのを幸い、一しょに船へ乗りこむことにした。長い航海も彼女には存外苦痛ではないらしかった。しかし彼女は紀州沖へかかると、急になぜか興奮しはじめ、とうとう海へ身を投げてしまった。日本へ近づけば近づくほど、懐郷病も逆に昂《たか》ぶって来る、――甲野は静かに油っ手を拭《ふ》き、腰ぬけのお鳥の嫉妬は勿論、彼女自身の嫉妬にもやはりこう云う神秘な力が働いていることを考えたりしていた。
「まあ、お母さん、どうしたんです? こんな所まで這《は》い出《だ》して来て。お母さんったら。――甲野さん、ちょっと来て下さい。」
お鈴の声は「離れ」に近い縁側から響いて来るらしかった。甲野はこの声を聞いた時、澄み渡った鏡に向ったまま、始めてにやりと冷笑を洩《も》らした。それからさも驚いたように「はい唯今《ただいま》」と返事をした。
五
玄鶴はだんだん衰弱して行った。彼の永年の病苦は勿論《もちろん》、彼の背中から腰へかけた床ずれの痛みも烈《はげ》しかった。彼は時々|唸《うな》り声《ごえ》を挙げ、僅《わず》かに苦しみを紛《まぎ》らせていた。しかし彼を悩ませたものは必しも肉体的苦痛ばかりではなかった。彼はお芳の泊っている間は多少の慰めを受けた代りにお鳥の嫉妬《しっと》や子供たちの喧嘩《けんか》にしっきりない苦しみを感じていた。けれどもそれはまだ善かった。玄鶴はお芳の去った後は恐しい孤独を感じた上、長い彼の一生と向い合わない訣《わけ》には行かなかった。
玄
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