ゃお父さんにそう言って来ましょう。お父さんもすっかり弱ってしまってね。障子の方へ向っている耳だけ霜焼けが出来たりしているのよ。」
お鈴は長火鉢の前を離れる前に何となしに鉄瓶をかけ直した。
「お母さん。」
お鳥は何か返事をした。それはやっと彼女の声に目を醒《さ》ましたらしい粘り声だった。
「お母さん。お芳さんが見えましたよ。」
お鈴はほっとした気もちになり、お芳の顔を見ないように早速長火鉢の前を立ち上った。それから次の間を通りしなにもう一度「お芳さんが」と声をかけた。お鳥は横になったまま、夜着の襟に口もとを埋めていた。が、彼女を見上げると、目だけに微笑に近いものを浮かべ、「おや、まあ、よく早く」と返事をした。お鈴ははっきりと彼女の背中にお芳の来ることを感じながら、雪のある庭に向った廊下をそわそわ「離れ」へ急いで行った。
「離れ」は明るい廊下から突然はいって来たお鈴の目には実際以上に薄暗かった。玄鶴は丁度起き直ったまま、甲野に新聞を読ませていた。が、お鈴の顔を見ると、いきなり「お芳か?」と声をかけた。それは妙に切迫した、詰問に近い嗄《しゃが》れ声《ごえ》だった。お鈴は襖側《ふすまがわ》に佇《たたず》んだなり、反射的に「ええ」と返事をした。それから、――誰も口を利かなかった。
「すぐにここへよこしますから。」
「うん。………お芳一人かい?」
「いいえ。………」
玄鶴は黙って頷《うなず》いていた。
「じゃ甲野さん、ちょっとこちらへ。」
お鈴は甲野よりも一足先に小走りに廊下を急いで行った。丁度雪の残った棕櫚《しゅろ》の葉の上には鶺鴒《せきれい》が一羽尾を振っていた。しかし彼女はそんなことよりも病人臭い「離れ」の中から何か気味の悪いものがついて来るように感じてならなかった。
四
お芳が泊りこむようになってから、一家の空気は目に見えて険悪になるばかりだった。それはまず武夫が文太郎をいじめることから始まっていた。文太郎は父の玄鶴よりも母のお芳に似た子供だった。しかも気の弱い所まで母のお芳に似た子供だった。お鈴も勿論《もちろん》こう云う子供に同情しない訣《わけ》ではないらしかった。が時々は文太郎を意気地なしと思うこともあるらしかった。
看護婦の甲野は職業がら、冷やかにこのありふれた家庭的悲劇を眺めていた、――と云うよりも寧《むし》ろ享楽していた。彼女の過去は暗いものだった。彼女は病家の主人だの病院の医者だのとの関係上、何度一塊の青酸加里を嚥《の》もうとしたことだか知れなかった。この過去はいつか彼女の心に他人の苦痛を享楽する病的な興味を植えつけていた。彼女は堀越家へはいって来た時、腰ぬけのお鳥が便をする度に手を洗わないのを発見した。「この家のお嫁さんは気が利いている。あたしたちにも気づかないように水を持って行ってやるようだから。」――そんなことも一時は疑深い彼女の心に影を落した。が、四五日いるうちにそれは全然お嬢様育ちのお鈴の手落ちだったのを発見した。彼女はこの発見に何か満足に近いものを感じ、お鳥の便をする度に洗面器の水を運んでやった。
「甲野さん、あなたのおかげさまで人間並みに手が洗えます。」
お鳥は手を合せて涙をこぼした。甲野はお鳥の喜びには少しも心を動かさなかった。しかしそれ以来三度に一度は水を持って行かなければならぬお鈴を見ることは愉快だった。従ってこう云う彼女には子供たちの喧嘩《けんか》も不快ではなかった。彼女は玄鶴にはお芳親子に同情のあるらしい素振りを示した。同時に又お鳥にはお芳親子に悪意のあるらしい素振りを示した。それはたとい徐《おもむ》ろにもせよ、確実に効果を与えるものだった。
お芳が泊ってから一週間ほどの後、武夫は又文太郎と喧嘩をした。喧嘩は唯《ただ》豚の尻《し》っ尾《ぽ》は柿の蔕《へた》に似ているとか似ていないとか云うことから始まっていた。武夫は彼の勉強部屋の隅に、――玄関の隣の四畳半の隅にか細い文太郎を押しつけた上、さんざん打ったり蹴《け》ったりした。そこへ丁度来合せたお芳は泣き声も出ない文太郎を抱き上げ、こう武夫をたしなめにかかった。
「坊ちゃん、弱いものいじめをなすってはいけません。」
それは内気な彼女には珍らしい棘《とげ》のある言葉だった。武夫はお芳の権幕に驚き、今度は彼自身泣きながら、お鈴のいる茶の間へ逃げこもった。するとお鈴もかっとしたと見え、手ミシンの仕事をやりかけたまま、お芳親子のいる所へ無理八理に武夫を引きずって行った。
「お前が一体|我儘《わがまま》なんです。さあ、お芳さんにおあやまりなさい、ちゃんと手をついておあやまりなさい。」
お芳はこう云うお鈴の前に文太郎と一しょに涙を流し、平あやまりにあやまる外はなかった。その又仲裁役を勤めるものは必ず看護婦の甲野だった。甲野は顔を赤
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