違ひあるまい。後者は少くも星の代りに隕石《ゐんせき》を与へる。前者は蛍を見ても星だと思ふだらう。素質、教育、その他の点から、僕が常に戒心するのは、この誤つた形式偏重論者の喝采などに浮かされない事だ。
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 偉大なる芸術家の作品を心読出来た時、僕等は屡その偉大な力に圧倒されて、爾余《じよ》の作家は悉《ことごとく》有れども無きが如く見えてしまふ。丁度太陽を見てゐたものが、眼を外へ転ずると、周囲がうす暗く見えるやうなものだ。僕は始めて「戦争と平和」を読んだ時、どんなに外の露西亜《ロシア》の作家を軽蔑したかわからない。が、これは正しくない事だ。僕等は太陽の外に、月も星もある事を知らなければならぬ。ゲエテはミケル・アンジエロの「最後の審判」に嘆服した時も、ヴアテイカンのラフアエルを軽蔑するのに躊躇するだけの余裕があつた。
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 芸術家は非凡な作品を作る為に、魂を悪魔へ売渡す事も、時と場合ではやり兼ねない。これは勿論僕もやり兼ねないと云ふ意味だ。僕より造作なくやりさうな人もゐるが。
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 日本へ来たメフイストフエレスが云ふ。「どんな作品で
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