てやすやすと認められよう。しかも彼の強大な「我《が》」は「悟《さと》り」と「諦《あきら》め」とに避難するにはあまりに情熱に溢《あふ》れている。
 彼は机の前に身を横たえたまま、親船の沈むのを見る、難破した船長の眼で、失敗した原稿を眺めながら、静かに絶望の威力と戦いつづけた。もしこの時、彼の後ろの襖《ふすま》が、けたたましく開け放されなかったら、そうして「お祖父様《じいさま》ただいま。」という声とともに、柔らかい小さな手が、彼の頸へ抱きつかなかったら、彼はおそらくこの憂欝《ゆううつ》な気分の中に、いつまでも鎖《とざ》されていたことであろう。が、孫の太郎は襖を開けるや否や、子供のみが持っている大胆と率直とをもって、いきなり馬琴の膝《ひざ》の上へ勢いよくとび上がった。
「お祖父様ただいま。」
「おお、よく早く帰って来たな。」
 この語《ことば》とともに、八犬伝の著者の皺《しわ》だらけな顔には、別人のような悦《よろこ》びが輝いた。

     十四

 茶の間の方では、癇高《かんだか》い妻のお百《ひゃく》の声や内気らしい嫁のお路《みち》の声が賑《にぎ》やかに聞えている。時々太い男の声がまじるの
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