際彼は公衆に向ってこの煮え切らない調和説の背後に、彼の芸術に対する曖昧《あいまい》な態度を隠そうとしたこともある。
しかし公衆は欺かれても、彼自身は欺かれない。彼は戯作《げさく》の価値を否定して「勧懲《かんちょう》の具」と称しながら、常に彼のうちに磅※[#「石+薄」、第3水準1−89−18]《ぼうはく》する芸術的感興に遭遇すると、たちまち不安を感じ出した。――水滸伝の一節が、たまたま彼の気分の上に、予想外の結果を及ぼしたのにも、実はこんな理由があったのである。
この点において、思想的に臆病だった馬琴は、黙然として煙草をふかしながら、強《し》いて思量を、留守にしている家族の方へ押し流そうとした。が、彼の前には水滸伝がある。不安はそれを中心にして、容易に念頭を離れない。そこへ折よく久しぶりで、崋山渡辺登《かざんわたなべのぼる》が尋ねて来た。袴羽織《はかまはおり》に紫の風呂敷包《ふろしきづつ》みを小脇《こわき》にしているところでは、これはおおかた借りていた書物でも返しに来たのであろう。
馬琴は喜んで、この親友をわざわざ玄関まで、迎えに出た。
「今日《こんにち》は拝借した書物を御返却かた
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