この桶の中の空《そら》のように、静かながら慕わしい、安らかな寂滅《じゃくめつ》の意識であった。一切の塵労《じんろう》を脱して、その「死」の中に眠ることが出来たならば――無心の子供のように夢もなく眠ることが出来たならば、どんなに悦《よろこ》ばしいことであろう。自分は生活に疲れているばかりではない。何十年来、絶え間ない創作の苦しみにも、疲れている。……
老人は憮然《ぶぜん》として、眼をあげた。あたりではやはり賑《にぎや》かな談笑の声につれて、大ぜいの裸の人間が、目まぐるしく湯気の中に動いている。柘榴口《ざくろぐち》の中の歌祭文《うたざいもん》にも、めりやす[#「めりやす」に傍点]やよしこの[#「よしこの」に傍点]の声が加わった。ここにはもちろん、今彼の心に影を落した悠久《ゆうきゅう》なものの姿は、微塵《みじん》もない。
「いや、先生、こりゃとんだところでお眼にかかりますな。どうも曲亭《きょくてい》先生が朝湯にお出でになろうなんぞとは手前夢にも思いませんでした。」
老人は、突然こう呼びかける声に驚かされた。見ると彼の傍《かたわら》には、血色のいい、中背《ちゅうぜい》の細銀杏《ほそいちょう
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