は、折から伜《せがれ》の宗伯《そうはく》も帰り合せたらしい。太郎は祖父の膝にまたがりながら、それを聞きすましでもするように、わざとまじめな顔をして天井を眺めた。外気にさらされた頬が赤くなって、小さな鼻の穴のまわりが、息をするたびに動いている。
「あのね、お祖父《じい》様にね。」
栗梅《くりうめ》の小さな紋附を着た太郎は、突然こう言い出した。考えようとする努力と、笑いたいのをこらえようとする努力とで、靨《えくぼ》が何度も消えたり出来たりする。――それが馬琴には、おのずから微笑を誘うような気がした。
「よく毎日《まいんち》。」
「うん、よく毎日《まいんち》?」
「御勉強なさい。」
馬琴はとうとうふき出した。が、笑いの中ですぐまた語《ことば》をつぎながら、
「それから?」
「それから――ええと――癇癪《かんしゃく》を起しちゃいけませんって。」
「おやおや、それっきりかい。」
「まだあるの。」
太郎はこう言って、糸鬢奴《いとびんやっこ》の頭を仰向けながら自分もまた笑い出した。眼を細くして、白い歯を出して、小さな靨《えくぼ》をよせて、笑っているのを見ると、これが大きくなって、世間の人間のような憐《あわ》れむべき顔になろうとは、どうしても思われない。馬琴は幸福の意識に溺《おぼ》れながら、こんなことを考えた。そうしてそれが、さらにまた彼の心をくすぐった。
「まだ何かあるかい?」
「まだね。いろんなことがあるの。」
「どんなことが。」
「ええと――お祖父様はね。今にもっとえらくなりますからね。」
「えらくなりますから?」
「ですからね。よくね。辛抱おしなさいって。」
「辛抱しているよ。」馬琴は思わず、真面目な声を出した。
「もっと、もっとようく辛抱なさいって。」
「誰がそんなことを言ったのだい。」
「それはね。」
太郎は悪戯《いたずら》そうに、ちょいと彼の顔を見た。そうして笑った。
「だあれだ?」
「そうさな。今日は御仏参に行ったのだから、お寺の坊さんに聞いて来たのだろう。」
「違う。」
断然として首を振った太郎は、馬琴の膝から、半分腰をもたげながら、顋《あご》を少し前へ出すようにして、
「あのね。」
「うん。」
「浅草の観音《かんのん》様がそう言ったの。」
こう言うとともに、この子供は、家内中に聞えそうな声で、嬉《うれ》しそうに笑いながら、馬琴につかまるのを恐れるよう
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