》が、止め桶を前に控えながら、濡れ手拭を肩へかけて、元気よく笑っている。これは風呂から出て、ちょうど上がり湯を使おうとしたところらしい。
「相変らず御機嫌で結構だね。」
馬琴滝沢瑣吉《ばきんたきざわさきち》は、微笑しながら、やや皮肉にこう答えた。
二
「どういたしまして、いっこう結構じゃございません。結構と言や、先生、八犬伝はいよいよ出《い》でて、いよいよ奇なり、結構なお出来でございますな。」
細銀杏は肩の手拭を桶の中へ入れながら、一調子張り上げて弁じ出した。
「船虫《ふなむし》が瞽婦《ごぜ》に身をやつして、小文吾《こぶんご》を殺そうとする。それがいったんつかまって拷問《ごうもん》されたあげくに、荘介《そうすけ》に助けられる。あの段どりが実になんとも申されません。そうしてそれがまた、荘介小文吾再会の機縁になるのでございますからな。不肖《ふしょう》じゃございますが、この近江屋平吉《おうみやへいきち》も、小間物屋こそいたしておりますが、読本《よみほん》にかけちゃひとかど通《つう》のつもりでございます。その手前でさえ、先生の八犬伝には、なんとも批《ひ》の打ちようがございません。いや全く恐れ入りました。」
馬琴は黙ってまた、足を洗い出した。彼はもちろん彼の著作の愛読者に対しては、昔からそれ相当な好意を持っている。しかしその好意のために、相手の人物に対する評価が、変化するなどということは少しもない。これは聡明《そうめい》な彼にとって、当然すぎるほど当然なことである、が、不思議なことには逆にその評価が彼の好意に影響するということもまたほとんどない。だから彼は場合によって、軽蔑《けいべつ》と好意とを、まったく同一人に対して同時に感ずることが出来た。この近江屋平吉《おうみやへいきち》のごときは、まさにそういう愛読者の一人である。
「なにしろあれだけのものをお書きになるんじゃ、並大抵なお骨折りじゃございますまい。まず当今では、先生がさしずめ日本の羅貫中《らかんちゅう》というところでございますな――いや、これはとんだ失礼を申し上げました。」
平吉はまた大きな声をあげて笑った。その声に驚かされたのであろう。側《かたわら》で湯を浴びていた小柄な、色の黒い、眇《すがめ》の小銀杏《こいちょう》が、振り返って平吉と馬琴とを見比べると、妙な顔をして流しへ痰《たん》を吐いた。
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