むしろいかつい[#「いかつい」に傍点]という体格で、皮のたるんだ手や足にも、どこかまだ老年に抵抗する底力が残っている。これは顔でも同じことで、下顎骨《かがくこつ》の張った頬のあたりや、やや大きい口の周囲に、旺盛な動物的精力が、恐ろしいひらめきを見せていることは、ほとんど壮年の昔と変りがない。
老人はていねいに上半身の垢を落してしまうと、止《と》め桶の湯も浴びずに、今度は下半身を洗いはじめた。が、黒い垢すりの甲斐絹《かいき》が何度となく上をこすっても、脂気《あぶらけ》の抜けた、小皺《こじわ》の多い皮膚からは、垢というほどの垢も出て来ない。それがふと秋らしい寂しい気を起させたのであろう。老人は片々《かたかた》の足を洗ったばかりで、急に力がぬけたように手拭の手を止めてしまった。そうして、濁った止め桶の湯に、鮮《あざや》かに映っている窓の外の空へ眼を落した。そこにはまた赤い柿の実が、瓦屋根の一角を下に見ながら、疎《まば》らに透いた枝を綴《つづ》っている。
老人の心には、この時「死」の影がさしたのである。が、その「死」は、かつて彼を脅かしたそれのように、いまわしい何物をも蔵していない。いわばこの桶の中の空《そら》のように、静かながら慕わしい、安らかな寂滅《じゃくめつ》の意識であった。一切の塵労《じんろう》を脱して、その「死」の中に眠ることが出来たならば――無心の子供のように夢もなく眠ることが出来たならば、どんなに悦《よろこ》ばしいことであろう。自分は生活に疲れているばかりではない。何十年来、絶え間ない創作の苦しみにも、疲れている。……
老人は憮然《ぶぜん》として、眼をあげた。あたりではやはり賑《にぎや》かな談笑の声につれて、大ぜいの裸の人間が、目まぐるしく湯気の中に動いている。柘榴口《ざくろぐち》の中の歌祭文《うたざいもん》にも、めりやす[#「めりやす」に傍点]やよしこの[#「よしこの」に傍点]の声が加わった。ここにはもちろん、今彼の心に影を落した悠久《ゆうきゅう》なものの姿は、微塵《みじん》もない。
「いや、先生、こりゃとんだところでお眼にかかりますな。どうも曲亭《きょくてい》先生が朝湯にお出でになろうなんぞとは手前夢にも思いませんでした。」
老人は、突然こう呼びかける声に驚かされた。見ると彼の傍《かたわら》には、血色のいい、中背《ちゅうぜい》の細銀杏《ほそいちょう
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