《へ》て、馬琴がこう言った。崋山の政治上の意見を知っている彼には、この時ふと一種の不安が感ぜられたからであろう。が、崋山は微笑したぎり、それには答えようともしなかった。

     十三

 崋山が帰ったあとで、馬琴はまだ残っている興奮を力に、八犬伝の稿をつぐべく、いつものように机へ向った。先を書きつづける前に、昨日書いたところを一通り読み返すのが、彼の昔からの習慣である。そこで彼は今日も、細い行の間へべた一面に朱を入れた、何枚かの原稿を、気をつけてゆっくり読み返した。
 すると、なぜか書いてあることが、自分の心もちとぴったり来ない。字と字との間に、不純な雑音が潜んでいて、それが全体の調和を至るところで破っている。彼は最初それを、彼の癇《かん》がたかぶっているからだと解釈した。
「今の己《おれ》の心もちが悪いのだ。書いてあることは、どうにか書き切れるところまで、書き切っているはずだから。」
 そう思って、彼はもう一度読み返した。が、調子の狂っていることは前と一向変りはない。彼は老人とは思われないほど、心の中で狼狽《ろうばい》し出した。
「このもう一つ前はどうだろう。」
 彼はその前に書いたところへ眼を通した。すると、これもまたいたずらに粗雑な文句ばかりが、糅然《じゅうぜん》としてちらかっている。彼はさらにその前を読んだ。そうしてまたその前の前を読んだ。
 しかし読むに従って拙劣な布置《ふち》と乱脈な文章とは、次第に眼の前に展開して来る。そこには何らの映像をも与えない叙景があった。何らの感激をも含まない詠歎があった。そうしてまた、何らの理路をたどらない論弁があった。彼が数日を費やして書き上げた何回分かの原稿は、今の彼の眼から見ると、ことごとく無用の饒舌《じょうぜつ》としか思われない。彼は急に、心を刺されるような苦痛を感じた。
「これは始めから、書き直すよりほかはない。」
 彼は心の中でこう叫びながら、いまいましそうに原稿を向うへつきやると、片肘《かたひじ》ついてごろりと横になった。が、それでもまだ気になるのか、眼は机の上を離れない。彼はこの机の上で、弓張月《ゆみはりづき》を書き、南柯夢《なんかのゆめ》を書き、そうして今は八犬伝を書いた。この上にある端渓《たんけい》の硯《すずり》、蹲※[#「虫+璃のつくり」、第3水準1−91−62]《そんり》の文鎮《ぶんちん》、蟇《ひき
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