《こうせい》恐るべしと言いましたがな。」
 馬琴は崋山が自分の絵のことばかり考えているのを、妬《ねた》ましいような心もちで眺めながら、いつになくこんな諧謔《かいぎゃく》を弄《ろう》した。
「それは後生も恐ろしい。だから私どもはただ、古人と後生との間にはさまって、身動きもならずに、押され押され進むのです。もっともこれは私どもばかりではありますまい。古人もそうだったし、後生もそうでしょう。」
「いかにも進まなければ、すぐに押し倒される。するとまず一足でも進む工夫が、肝腎《かんじん》らしいようですな。」
「さよう、それが何よりも肝腎です。」
 主人と客とは、彼ら自身の語《ことば》に動かされて、しばらくの間口をとざした。そうして二人とも、秋の日の静かな物音に耳をすませた。
「八犬伝は相変らず、捗《はか》がお行きですか。」
 やがて、崋山が話題を別な方面に開いた。
「いや、一向はかどらんでしかたがありません。これも古人には及ばないようです。」
「御老人がそんなことを言っては、困りますな。」
「困るのなら、私の方が誰よりも困っています。しかしどうしても、これで行けるところまで行くよりほかはない。そう思って、私はこのごろ八犬伝と討死《うちじに》の覚悟をしました。」
 こう言って、馬琴は自ら恥ずるもののように、苦笑した。
「たかが戯作《げさく》だと思っても、そうはいかないことが多いのでね。」
「それは私の絵でも同じことです。どうせやり出したからには、私も行けるところまでは行き切りたいと思っています。」
「お互いに討死ですかな。」
 二人は声を立てて、笑った。が、その笑い声の中には、二人だけにしかわからないある寂しさが流れている。と同時にまた、主人と客とは、ひとしくこの寂しさから、一種の力強い興奮を感じた。
「しかし絵の方は羨《うらや》ましいようですな。公儀のお咎《とが》めを受けるなどということがないのはなによりも結構です。」
 今度は馬琴が、話頭を一転した。

     十二

「それはないが――御老人の書かれるものも、そういう心配はありますまい。」
「いや、大いにありますよ。」
 馬琴は改名主《あらためなぬし》の図書検閲が、陋《ろう》を極めている例として、自作の小説の一節が役人が賄賂《わいろ》をとる箇条のあったために、改作を命ぜられた事実を挙《あ》げた。そうして、それにこんな批評
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