あなたのところへ、食客《しょっかく》に置いて貰うわけには行くまいか。それからまた、自分は六冊物の読本の原稿を持っている。これもあなたの筆削《ひっさく》を受けて、しかるべき本屋から出版したい。――大体こんなことを書いてよこした。向うの要求は、もちろんみな馬琴にとって、あまりに虫のいいことばかりである。が、耳の遠いということが、眼の悪いのを苦にしている彼にとって、幾分の同情をつなぐ楔子《くさび》になったのであろう。せっかくだが御依頼通りになりかねるという彼の返事は、むしろ彼としては、鄭重《ていちょう》を極めていた。すると、折り返して来た手紙には、始めからしまいまで猛烈な非難の文句のほかに、何一つ書いてない。
自分はあなたの八犬伝といい、巡島記といい、あんな長たらしい、拙劣な読本を根気よく読んであげたが、あなたは私のたった六冊物の読本に眼を通すのさえ拒まれた。もってあなたの人格の下等さがわかるではないか。――手紙はこういう文句ではじまって、先輩として後輩を食客に置かないのは、鄙吝《ひりん》のなすところだという攻撃で、わずかに局を結んでいる。馬琴は腹が立ったから、すぐに返事を書いた。そうしてその中に、自分の読本が貴公のような軽薄児に読まれるのは、一生の恥辱だという文句を入れた。その後|杳《よう》として消息を聞かないが、彼はまだ今まで、読本の稿を起しているだろうか。そうしてそれがいつか日本中の人間に読まれることを、夢想しているだろうか。…………
馬琴はこの記憶の中に、長島政兵衛なるものに対する情けなさと、彼自身に対する情けなさとを同時に感ぜざるを得なかった。そうしてそれはまた彼を、言いようのない寂しさに導いた。が、日は無心に木犀《もくせい》の匂《にお》いを融《と》かしている。芭蕉《ばしょう》や梧桐《あおぎり》も、ひっそりとして葉を動かさない。鳶《とび》の声さえ以前の通り朗かである。この自然とあの人間と――十分《じっぷん》の後、下女の杉が昼飯の支度の出来たことを知らせに来た時まで、彼はまるで夢でも見ているように、ぼんやり縁側の柱に倚《よ》りつづけていた。
十
独《ひと》りで寂しい昼飯をすませた彼は、ようやく書斎へひきとると、なんとなく落ち着きがない、不快な心もちを鎮めるために、久しぶりで水滸伝《すいこでん》を開いて見た。偶然開いたところは豹子頭林冲《ひょうし
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