馬琴は、その中にいる人々の間を、あぶなそうに押しわけながら、どうにか風呂の隅《すみ》をさぐり当てると、やっとそこへ皺《しわ》だらけな体を浸した。
湯加減は少し熱いくらいである。彼はその熱い湯が爪の先にしみこむのを感じながら、長い呼吸《いき》をして、おもむろに風呂の中を見廻した。うす暗い中に浮んでいる頭の数は、七つ八つもあろうか。それが皆話しをしたり、唄《うた》をうたったりしているまわりには、人間の脂《あぶら》を溶かした、滑らかな湯の面《おもて》が、柘榴口からさす濁った光に反射して、退屈そうにたぶたぶと動いている。そこへ胸の悪い「銭湯の匂《にお》い」がむんと人の鼻をついた。
馬琴の空想には、昔から羅曼的《ロマンティク》な傾向がある。彼はこの風呂の湯気の中に、彼が描こうとする小説の場景の一つを、思い浮べるともなく思い浮べた。そこには重い舟日覆《ふなひおい》がある。日覆の外の海は、日の暮れとともに風が出たらしい。舷《ふなべり》をうつ浪《なみ》の音が、まるで油を揺するように、重苦しく聞えて来る。その音とともに、日覆をはためかすのは、おおかた蝙蝠《こうもり》の羽音であろう。舟子《かこ》の一人は、それを気にするように、そっと舷から外をのぞいてみた。霧の下りた海の上には、赤い三日月が陰々と空にかかっている。すると……
彼の空想は、ここまで来て、急に破られた。同じ柘榴口の中で、誰か彼の読本《よみほん》の批評をしているのが、ふと彼の耳へはいったからである。しかも、それは声といい、話しようといい、ことさら彼に聞かせようとして、しゃべり立てているらしい。馬琴はいったん風呂を出ようとしたが、やめて、じっとその批評を聞き澄ました。
「曲亭先生の、著作堂主人のと、大きなことを言ったって、馬琴なんぞの書くものは、みんなありゃ焼き直しでげす。早い話が八犬伝は、手もなく水滸伝《すいこでん》の引き写しじゃげえせんか。が、そりゃまあ大目に見ても、いい筋がありやす。なにしろ先が唐《から》の物でげしょう。そこで、まずそれを読んだというだけでも、一手柄《ひとてがら》さ。ところがそこへまたずぶ京伝《きょうでん》の二番煎《にばんせん》じと来ちゃ、呆《あき》れ返って腹も立ちやせん。」
馬琴はかすむ眼で、この悪口《あっこう》を言っている男の方を透《すか》して見た。湯気にさえぎられて、はっきりと見えないが、どう
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