ひかはらず》御機嫌で結構だね。」
 馬琴《ばきん》滝沢瑣吉《たきざはさきち》は、微笑しながら、稍《やや》皮肉にかう答へた。

       二

「どう致しまして、一向結構ぢやございません。結構と云や、先生、八犬伝《はつけんでん》は愈《いよいよ》出でて、愈《いよいよ》奇なり、結構なお出来でございますな。」
 細銀杏は肩の手拭を桶の中へ入れながら、一調子張上げて弁じ出した。
「船虫《ふなむし》が瞽婦《ごぜ》に身をやつして、小文吾《こぶんご》を殺さうとする。それが一旦つかまつて拷問《がうもん》された揚句に、荘介《さうすけ》に助けられる。あの段どりが実に何とも申されません。さうしてそれが又、荘介小文吾再会の機縁になるのでございますからな。不肖ぢやございますが、この近江屋《あふみや》平吉《へいきち》も、小間物屋こそ致して居りますが、読本《よみほん》にかけちや一かど通《つう》のつもりでございます。その手前でさへ、先生の八犬伝には、何とも批《ひ》の打ちやうがございません。いや全く恐れ入りました。」
 馬琴は黙つて又、足を洗ひ出した。彼は勿論彼の著作の愛読者に対しては、昔からそれ相当な好意を持つてゐ
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