由兵衛奴《よしべゑやつこ》、水槽《みづぶね》の前に腰を据ゑて、しきりに水をかぶつてゐる坊主頭《ばうずあたま》、竹の手桶と焼物の金魚とで、余念なく遊んでゐる虻蜂蜻蛉《あぶはちとんぼ》、――狭い流しにはさう云ふ種々雑多な人間がいづれも濡れた体を滑《なめ》らかに光らせながら、濛々《もうもう》と立上る湯煙と窓からさす朝日の光との中に、糢糊《もこ》として動いてゐる。その又騒ぎが、一通りではない。第一に湯を使ふ音や桶を動かす音がする。それから話し声や唄の声がする。最後に時々番台で鳴らす拍子木《ひやうしぎ》の音がする。だから柘榴口《ざくろぐち》の内外は、すべてがまるで戦場のやうに騒々しい。そこへ暖簾《のれん》をくぐつて、商人《あきうど》が来る。物貰ひが来る。客の出入りは勿論あつた。その混雑の中に――
 つつましく隅へ寄つて、その混雑の中に、静に垢《あか》を落してゐる、六十あまりの老人が一人あつた。年の頃は六十を越してゐよう。鬢《びん》の毛が見苦しく黄ばんだ上に、眼も少し悪いらしい。が、痩せてはゐるものの骨組みのしつかりした、寧《むしろ》いかつい[#「いかつい」に傍点]と云ふ体格で、皮のたるんだ手や足
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