つきの星を砕いたやうなものが、川よりも早く流れてゐる。さうしてそれが刻々に力を加へて来て、否応なしに彼を押しやつてしまふ。
 彼の耳には何時か、蟋蟀の声が聞えなくなつた。彼の眼にも、円行燈のかすかな光が、今は少しも苦にならない。筆は自《おのづか》ら勢を生じて、一気に紙の上を辷《すべ》りはじめる。彼は神人《しんじん》と相搏《あひう》つやうな態度で、殆ど必死に書きつづけた。
 頭の中の流は、丁度空を走る銀河のやうに、滾々《こんこん》として何処からか溢れて来る。彼はその凄《すさま》じい勢を恐れながら、自分の肉体の力が万一それに耐へられなくなる場合を気づかつた。さうして、緊《かた》く筆を握りながら、何度もかう自分に呼びかけた。
「根かぎり書きつづけろ。今|己《おれ》が書いてゐる事は、今でなければ書けない事かも知れないぞ。」
 しかし光の靄《もや》に似た流は、少しもその速力を緩《ゆる》めない。反つて目まぐるしい飛躍の中に、あらゆるものを溺らせながら、澎湃《はうはい》として彼を襲つて来る。彼は遂《つひ》に全くその虜《とりこ》になつた。さうして一切を忘れながら、その流の方向に、嵐のやうな勢で筆を駆《か》つた。
 この時彼の王者のやうな眼に映つてゐたものは、利害でもなければ、愛憎でもない。まして毀誉《きよ》に煩はされる心などは、とうに眼底を払つて消えてしまつた。あるのは、唯不可思議な悦びである。或は恍惚たる悲壮の感激である。この感激を知らないものに、どうして戯作三昧《げさくざんまい》の心境が味到されよう。どうして戯作者の厳《おごそ》かな魂が理解されよう。ここにこそ「人生」は、あらゆるその残滓《ざんし》を洗つて、まるで新しい鉱石のやうに、美しく作者の前に、輝いてゐるではないか。……
        *      *      *
 その間も茶の間の行燈のまはりでは、姑《しうと》のお百と、嫁のお路とが、向ひ合つて縫物を続けてゐる。太郎はもう寝かせたのであらう。少し離れた所には※[#「兀+王」、第3水準1−47−62]弱《わうじやく》らしい宗伯が、さつきから丸薬をまろめるのに忙しい。
「お父様《とつさん》はまだ寝ないかねえ。」
 やがてお百は、針へ髪の油をつけながら、不服らしく呟《つぶや》いた。
「きつと又お書きもので、夢中になつていらつしやるのでせう。」
 お路は眼を針から離さずに、返
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