の袖垣の外に植ゑた木犀《もくせい》は、まだその甘い匂が衰へない。そこへ例の鳶《とび》の声が遙《はるか》な青空の向うから、時々笛を吹くやうに落ちて来た。
彼は、この自然と対照させて、今更のやうに世間の下等さを思出した。下等な世間に住む人間の不幸は、その下等さに煩《わづら》はされて、自分も亦下等な言動を余儀なくさせられる所にある。現に今自分は、和泉屋市兵衛を逐《お》ひ払つた。逐ひ払ふと云ふ事は、勿論高等な事でも何でもない。が、自分は相手の下等さによつて、自分も亦その下等な事を、しなくてはならない所まで押しつめられたのである。さうして、した。したと云ふ意味は市兵衛と同じ程度まで、自分を卑くしたと云ふのに外ならない。つまり自分は、それ丈堕落させられた訳である。
ここまで考へた時に、彼はそれと同じやうな出来事を、近い過去の記憶に発見した。それは去年の春、彼の所へ弟子入りをしたいと云つて手紙をよこした、相州《さうしう》朽木《くちき》上新田《かみしんでん》とかの長島政兵衛《ながしままさべゑ》と云ふ男である。この男はその手紙によると、二十一の年に聾《つんぼ》になつて以来、廿四の今日まで文筆を以て天下に知られたいと云ふ決心で、専《もつぱ》ら読本《よみほん》の著作に精を出した。八犬伝や巡島記《じゆんたうき》の愛読者である事は云ふまでもない。就いてはかう云ふ田舎《ゐなか》にゐては、何かと修業の妨《さまたげ》になる。だから、あなたの所へ、食客に置いて貰ふ訳には行くまいか。それから又、自分は六冊物の読本の原稿を持つてゐる。これもあなたの筆削《ひつさく》を受けて、然るべき本屋から出版したい。――大体こんな事を書いてよこした。向うの要求は、勿論皆馬琴にとつて、余りに虫のいい事ばかりである。が、耳の遠いと云ふ事が、眼の悪いのを苦にしてゐる彼にとつて、幾分の同情を繋ぐ楔子《くさび》になつたのであらう。折角だが御依頼通りになり兼ねると云ふ彼の返事は、寧《むしろ》彼としては、鄭重《ていちよう》を極めてゐた。すると、折返して来た手紙には、始から仕舞まで猛烈な非難の文句の外に、何一つ書いてない。
自分はあなたの八犬伝と云ひ、巡島記と云ひ、あんな長たらしい、拙劣な読本《よみほん》を根気よく読んであげたが、あなたは私のたつた六冊物の読本に眼を通すのさへ拒《こば》まれた。以てあなたの人格の下等さがわかるでは
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