ひまで歌つた。
それから小林君が、舞妓《まひこ》に踊《をどり》を所望した。おまつさんは、座敷が狭いから、唐紙《からかみ》を明《あ》けて、次の間《ま》で踊ると好《い》いと云ふ。そこで椿餅《つばきもち》を食べてゐた舞妓が、素直《すなほ》に次の間へ行つて、京の四季を踊つた。遺憾ながらかう云ふ踊になると、自分にはうまいのだかまづいのだかわからない。が、花簪《はなかんざし》が傾いたり、だらりの帯が動いたり、舞扇《まひあふぎ》が光つたりして、甚《はなはだ》綺麗《きれい》だつたから、鴨《かも》ロオスを突《つつ》つきながら、面白がて眺めてゐた。
しかし実を云ふと、面白がつて見てゐたのは、単に綺麗だつたからばかりではない。舞妓《まひこ》は風を引いてゐたと見えて、下を向くやうな所へ来ると、必ず恰好《かつかう》の好《い》い鼻の奥で、春泥《しゆんでい》を踏むやうな音がかすかにした。それがひねつこびた教坊《けうばう》の子供らしくなくつて、如何《いか》にも自然な好《い》い心もちがした。自分は酔《よ》つてゐて、妙に嬉しかつたから、踊がすむと、その舞妓に羊羹《やうかん》だの椿餅だのをとつてやつた。もし舞妓にきまりの悪い思ひをさせる惧《おそれ》がなかつたなら、お前は丁度《ちやうど》五度《ごたび》鼻洟《はなみづ》を啜《すす》つたぜと、云つてやりたかつた位である。
間《ま》もなく躁狂《さうきやう》の芸者が帰つたので、座敷は急に静になつた。窓|硝子《ガラス》の外を覗《のぞ》いて見ると、広告の電燈の光が、川の水に映《うつ》つてゐる。空は曇つてゐるので、東山《ひがしやま》もどこにあるのだか、判然しない。自分は反動的に気がふさぎ出したから、小林君に又|大津絵《おほつゑ》でも唄ひませんかと、云つた。小林君は脇息《けふそく》によりかかりながら、子供のやうに笑つて、いやいやをした。やはり大分《だいぶ》酔《ゑひ》がまはつてゐたのだらう。舞妓は椿餅にも飽きたと見えて、独りで折鶴《をりづる》を拵《こしら》へてゐる。おまつさんと外《ほか》の芸者とは、小さな声で、誰かの噂か何かしてゐる。――自分は東京を出て以来、この派手《はで》なお茶屋の中で、始めて旅愁《りよしう》らしい、寂しい感情を味《あぢは》つた。
[#地から1字上げ](大正七年六月)
底本:「筑摩全集類聚 芥川龍之介全集第四巻」筑摩書房
1971(昭和
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