めになる指環《ゆびわ》、――ことごとく型を出でなかった。保吉はいよいよ中《あ》てられたから、この客の存在を忘れたさに、隣にいる露柴《ろさい》へ話しかけた。が、露柴はうんとか、ええとか、好《い》い加減な返事しかしてくれなかった。のみならず彼も中《あ》てられたのか、電燈の光に背《そむ》きながら、わざと鳥打帽を目深《まぶか》にしていた。
 保吉《やすきち》はやむを得ず風中《ふうちゅう》や如丹《じょたん》と、食物《くいもの》の事などを話し合った。しかし話ははずまなかった。この肥《ふと》った客の出現以来、我々三人の心もちに、妙な狂いの出来た事は、どうにも仕方のない事実だった。
 客は註文のフライが来ると、正宗《まさむね》の罎《びん》を取り上げた。そうして猪口《ちょく》へつごうとした。その時誰か横合いから、「幸《こう》さん」とはっきり呼んだものがあった。客は明らかにびっくりした。しかもその驚いた顔は、声の主《ぬし》を見たと思うと、たちまち当惑《とうわく》の色に変り出した。「やあ、こりゃ檀那《だんな》でしたか。」――客は中折帽を脱ぎながら、何度も声の主《ぬし》に御時儀《おじぎ》をした。声の主は俳人の露柴《ろさい》、河岸《かし》の丸清《まるせい》の檀那だった。
「しばらくだね。」――露柴は涼しい顔をしながら、猪口を口へ持って行った。その猪口が空《から》になると、客は隙《す》かさず露柴の猪口へ客自身の罎の酒をついだ。それから側目《はため》には可笑《おか》しいほど、露柴の機嫌《きげん》を窺《うかが》い出した。………
 鏡花《きょうか》の小説は死んではいない。少くとも東京の魚河岸には、未《いまだ》にあの通りの事件も起るのである。
 しかし洋食屋の外《そと》へ出た時、保吉の心は沈んでいた。保吉は勿論「幸さん」には、何の同情も持たなかった。その上露柴の話によると、客は人格も悪いらしかった。が、それにも関《かかわ》らず妙に陽気《ようき》にはなれなかった。保吉の書斎の机の上には、読みかけたロシュフウコオの語録がある。――保吉は月明りを履《ふ》みながら、いつかそんな事を考えていた。
[#地から1字上げ](大正十一年七月)



底本:「芥川龍之介全集5」ちくま文庫、筑摩書房
   1987(昭和62)年2月24日第1刷発行
   1995(平成7)年4月10日第6刷発行
底本の親本:「筑摩全集類聚
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