疑惑
芥川龍之介
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)実践倫理学《じっせんりんりがく》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)ある年の春|私《わたくし》は
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「火+主」、第3水準1−87−40]
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今ではもう十年あまり以前になるが、ある年の春|私《わたくし》は実践倫理学《じっせんりんりがく》の講義を依頼されて、その間《あいだ》かれこれ一週間ばかり、岐阜県《ぎふけん》下の大垣町《おおがきまち》へ滞在する事になった。元来地方有志なるものの難有《ありがた》迷惑な厚遇に辟易《へきえき》していた私は、私を請待《せいだい》してくれたある教育家の団体へ予《あらかじ》め断りの手紙を出して、送迎とか宴会とかあるいはまた名所の案内とか、そのほかいろいろ講演に附随する一切の無用な暇つぶしを拒絶したい旨希望して置いた。すると幸《さいわい》私の変人だと云う風評は夙《つと》にこの地方にも伝えられていたものと見えて、やがて私が向うへ行くと、その団体の会長たる大垣町長の斡旋《あっせん》によって、万事がこの我儘な希望通り取計らわれたばかりでなく、宿も特に普通の旅館を避けて、町内の素封家《そほうか》N氏の別荘とかになっている閑静な住居《すまい》を周旋された。私がこれから話そうと思うのは、その滞在中《たいざいちゅう》その別荘で偶然私が耳にしたある悲惨な出来事の顛末《てんまつ》である。
その住居《すまい》のある所は、巨鹿城《ころくじょう》に近い廓町《くるわまち》の最も俗塵に遠い一区劃だった。殊に私の起臥《きが》していた書院造りの八畳は、日当りこそ悪い憾《うらみ》はあったが、障子襖《しょうじふすま》もほどよく寂びのついた、いかにも落着きのある座敷だった。私の世話を焼いてくれる別荘番の夫婦者は、格別用のない限り、いつも勝手に下っていたから、このうす暗い八畳の間《ま》は大抵森閑として人気《ひとけ》がなかった。それは御影《みかげ》の手水鉢《ちょうずばち》の上に枝を延ばしている木蓮《もくれん》が、時々白い花を落すのでさえ、明《あきらか》に聞き取れるような静かさだった。毎日午前だけ講演に行った私は、午後と夜とをこの座敷で、はなはだ泰平に暮す事が出来た。が、同時にまた、参考書と着換えとを入れた鞄のほかに何一つない私自身を、春寒く思う事も度々あった。
もっとも午後は時折来る訪問客に気が紛《まぎ》れて、さほど寂しいとは思わなかった。が、やがて竹の筒《つつ》を台にした古風なランプに火が燈《とも》ると、人間らしい気息《いぶき》の通う世界は、たちまちそのかすかな光に照される私の周囲だけに縮まってしまった。しかも私にはその周囲さえ、決して頼もしい気は起させなかった。私の後《うしろ》にある床《とこ》の間《ま》には、花も活《い》けてない青銅の瓶《かめ》が一つ、威《い》かつくどっしりと据えてあった。そうしてその上には怪しげな楊柳観音《ようりゅうかんのん》の軸が、煤《すす》けた錦襴《きんらん》の表装《ひょうそう》の中に朦朧《もうろう》と墨色《ぼくしょく》を弁じていた。私は折々書見の眼をあげて、この古ぼけた仏画をふり返ると、必ず※[#「火+主」、第3水準1−87−40]《た》きもしない線香がどこかで※[#「均のつくり」、第3水準1−14−75]《にお》っているような心もちがした。それほど座敷の中には寺らしい閑寂の気が罩《こも》っていた。だから私はよく早寝をした。が、床にはいっても容易に眠くはならなかった。雨戸の外では夜鳥《よどり》の声が、遠近《えんきん》を定めず私を驚かした。その声はこの住居《すまい》の上にある天主閣《てんしゅかく》を心に描かせた。昼見るといつも天主閣は、蓊鬱《おううつ》とした松の間に三層《さんぞう》の白壁《しらかべ》を畳みながら、その反《そ》り返った家根の空へ無数の鴉《からす》をばら撒《ま》いている。――私はいつかうとうとと浅い眠に沈みながら、それでもまだ腹の底には水のような春寒《はるさむ》が漂っているのを意識した。
するとある夜の事――それは予定の講演日数が将《まさ》に終ろうとしている頃であった。私はいつもの通りランプの前にあぐらをかいて、漫然と書見に耽《ふけ》っていると、突然次の間との境の襖が無気味なほど静に明いた。その明いたのに気がついた時、無意識にあの別荘番を予期していた私は、折よく先刻書いて置いた端書の投函《とうかん》を頼もうと思って、何気なくその方を一瞥した。するとその襖側《ふすまぎわ》のうす暗がりには、私の全く見知らない四十恰好《しじゅうがっこう》の男が一人、端然として坐っていた。実を云えばその瞬間、私は驚愕《きょうがく》――と云うよりもむしろ迷信的な恐怖に近い一種の感情に脅《おびや》かされた。また実際その男は、それだけのショックに価すべく、ぼんやりしたランプの光を浴びて、妙に幽霊じみた姿を具えていた。が、彼は私と顔を合わすと、昔風に両肱《りょうひじ》を高く張って恭《うやうや》しく頭《かしら》を下げながら、思ったよりも若い声で、ほとんど機械的にこんな挨拶の言《ことば》を述べた。
「夜中《やちゅう》、殊に御忙しい所を御邪魔に上りまして、何とも申し訳の致しようはございませんが、ちと折入って先生に御願い申したい儀がございまして、失礼をも顧ず、参上致したような次第でございます。」
ようやく最初のショックから恢復した私は、その男がこう弁じ立てている間に、始めて落着いて相手を観察した。彼は額の広い、頬《ほお》のこけた、年にも似合わず眼に働きのある、品の好《い》い半白《はんぱく》の人物だった。それが紋附でこそなかったが、見苦しからぬ羽織袴で、しかも膝のあたりにはちゃんと扇面を控えていた。ただ、咄嗟《とっさ》の際にも私の神経を刺戟したのは、彼の左の手の指が一本欠けている事だった。私はふとそれに気がつくと、我知らず眼をその手から外《そ》らさないではいられなかった。
「何か御用ですか。」
私は読みかけた書物を閉じながら、無愛想にこう問いかけた。云うまでもなく私には、彼の唐突な訪問が意外であると共に腹立しかった。と同時にまた別荘番が一言《いちごん》もこの客来《きゃくらい》を取次がないのも不審だった。しかしその男は私の冷淡な言葉にもめげないで、もう一度額を畳につけると、相不変朗読《あいかわらずろうどく》でもしそうな調子で、
「申し遅れましたが、私《わたくし》は中村玄道《なかむらげんどう》と申しますもので、やはり毎日先生の御講演を伺いに出て居りますが、勿論多数の中でございますから、御見覚えもございますまい。どうかこれを御縁にして、今後はまた何分ともよろしく御指導のほどを御願い致します。」
私はここに至って、ようやくこの男の来意が呑みこめたような心もちがした。が、夜中《やちゅう》書見の清興《せいきょう》を破られた事は、依然として不快に違いなかった。
「すると――何か私の講演に質疑でもあると仰有《おっしゃ》るのですか。」
こう尋ねた私は内心ひそかに、「質疑なら明日《みょうにち》講演場で伺いましょう。」と云う体《てい》の善い撃退の文句を用意していた。しかし相手はやはり顔の筋肉一つ動かさないで、じっと袴の膝の上に視線を落しながら、
「いえ、質疑ではございません。ございませんが、実は私一身のふり方につきまして、善悪とも先生の御意見を承りたいのでございます。と申しますのは、唯今からざっと二十年ばかり以前、私はある思いもよらない出来事に出合いまして、その結果とんと私にも私自身がわからなくなってしまいました。つきましては、先生のような倫理学界の大家の御説を伺いましたら、自然分別もつこうと存じまして、今晩はわざわざ推参致したのでございます。いかがでございましょう。御退屈でも私の身の上話を一通り御聴き取り下さる訳には参りますまいか。」
私は答に躊躇《ちゅうちょ》した。成程《なるほど》専門の上から云えば倫理学者には相違ないが、そうかと云ってまた私は、その専門の知識を運転させてすぐに当面の実際問題への霊活《れいかつ》な解決を与え得るほど、融通の利《き》く頭脳の持ち主だとは遺憾ながら己惚《うぬぼ》れる事が出来なかった。すると彼は私の逡巡《しゅんじゅん》に早くも気がついたと見えて、今まで袴《はかま》の膝の上に伏せていた視線をあげると、半ば歎願するように、怯《お》ず怯《お》ず私の顔色《かおいろ》を窺いながら、前よりやや自然な声で、慇懃《いんぎん》にこう言葉を継《つ》いだ。
「いえ、それも勿論強いて先生から、是非の御判断を伺わなくてはならないと申す訳ではございません。ただ、私がこの年になりますまで、始終頭を悩まさずにはいられなかった問題でございますから、せめてその間の苦しみだけでも先生のような方の御耳に入れて、多少にもせよ私自身の心やりに致したいと思うのでございます。」
こう云われて見ると私は、義理にもこの見知らない男の話を聞かないと云う訳には行かなかった。が、同時にまた不吉な予感と茫漠とした一種の責任感とが、重苦しく私の心の上にのしかかって来るような心もちもした。私はそれらの不安な感じを払い除けたい一心から、わざと気軽らしい態度を装《よそお》って、うすぼんやりしたランプの向うに近々と相手を招じながら、
「ではとにかく御話だけ伺いましょう。もっともそれを伺ったからと云って、格別御参考になるような意見などは申し上げられるかどうかわかりませんが。」
「いえ、ただ、御聞きになってさえ下されば、それでもう私には本望すぎるくらいでございます。」
中村玄道《なかむらげんどう》と名のった人物は、指の一本足りない手に畳の上の扇子をとり上げると、時々そっと眼をあげて私よりもむしろ床の間の楊柳観音《ようりゅうかんのん》を偸《ぬす》み見ながら、やはり抑揚《よくよう》に乏しい陰気な調子で、とぎれ勝ちにこう話し始めた。
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ちょうど明治二十四年の事でございます。御承知の通り二十四年と申しますと、あの濃尾《のうび》の大地震《おおじしん》がございました年で、あれ以来この大垣《おおがき》もがらりと容子《ようす》が違ってしまいましたが、その頃町には小学校がちょうど二つございまして、一つは藩侯の御建てになったもの、一つは町方《まちかた》の建てたものと、こう分れて居ったものでございます。私はその藩侯の御建てになったK小学校へ奉職して居りましたが、二三年|前《まえ》に県の師範学校を首席で卒業致しましたのと、その後《のち》また引き続いて校長などの信用も相当にございましたのとで、年輩にしては高級な十五円と云う月俸を頂戴致して居りました。唯今でこそ十五円の月給取は露命も繋《つな》げないぐらいでございましょうが、何分二十年も以前の事で、十分とは参りませんまでも、暮しに不自由はございませんでしたから、同僚の中でも私などは、どちらかと申すと羨望《せんぼう》の的になったほどでございました。
家族は天にも地にも妻一人で、それもまだ結婚してから、ようやく二年ばかりしか経たない頃でございました。妻は校長の遠縁のもので、幼い時に両親に別れてから私の所へ片づくまで、ずっと校長夫婦が娘のように面倒を見てくれた女でございます。名は小夜《さよ》と申しまして、私の口から申し上げますのも、異なものでございますが、至って素直な、はにかみ易い――その代りまた無口過ぎて、どこか影の薄いような、寂しい生れつきでございました。が、私には似たもの夫婦で、たといこれと申すほどの花々しい楽しさはございませんでも、まず安らかなその日その日を、送る事が出来たのでございます。
するとあの大地震《おおじしん》で、――忘れも致しません十月の二十八日、かれこれ午前七時頃でございましょうか。私が井戸|端《ばた》で楊枝《ようじ》を使
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